
「この子は知恵遅れではないか」
私が生まれて間もない頃、母はいきなり試練にぶつかります。子供(私)が2歳になっても、言葉らしい言葉を全く話さなかったのです。「男の子は言葉が遅い」とは言いますが、これはあんまりです。母は悩んで、いろいろ相談にも行ったそうです。結局、3歳になって、やっと言葉を話しました。
私の家の裏には団地があり、たくさん子どもたちが住んでいました。 非常に活発な子が多かったと思います。私はここの子たちとは仲良くなれませんでした。住んでいる場所が違うので、輪に入ることができなかったといったところでしょうか。近所の数少ない友達と遊ぶことが多かったように思います。
満5歳の4月、幼稚園に入園しました。 初めて家族以外との集団生活を経験しました。 幼稚園では緘黙にはなりませんでしたが、どうしようもない落ちこぼれ園児でした。
幼稚園には、知らない子どもばかりでした。 多数を占めていた団地出身の子どもたちは、最初からお互い顔見知りで仲もよかったのですが、 そうでなかった私は、その輪に入ることはできませんでした。
その上、他の園児に比べて頭の回転がものすごく遅く、手先も不器用で、要領もとてつもなく悪く、 何をやらせてもたんぽぽ組の足手まといでした。
極めつけは、おもらしでした。幼稚園でおもらしを連発し、その度に泣きわめき、先生を何度も困らせました。たまらず、親が幼稚園まで迎えに来るといったこともたびたびでした。幼稚園でおもらしをする5歳園児というのは、私の他にもたまにいましたが、私のおもらしの頻度は度を超していました。たんぽぽ組で誰かがおもらしをしたといえば、十中八九、私でした。
その後、小学校に入学しました。小学校では緘黙にはならなかったのですが、入学早々、学校不適応になってしまいました。
勉強にスポーツ、いずれもクラスでは最下位レベルで、いじめの対象にもなりました。 自分はどうしようもない底辺児童なのだということを、入学早々思い知らされました。 小学校1年生ながら、強い劣等感を植え付けさせられました。
どん底からのスタートだった私ですが、次第に学校生活にも慣れて、 明るい面も出てきました。
入学早々「足し算」でつまずいた算数でしたが、 親に頼んで計算ドリルを買ってもらい、家で何度も解きました。 授業は真面目に聞き、宿題は欠かさずこなしました。 そんなことをしばらく続けていくうちに、 特に授業についていけないということはなくなっていきました。 また、親に買ってもらった昆虫図鑑を好きで眺めているうちに、 クラスメイトの一部から「昆虫博士」と呼ばれ、慕われるようになりました。
私はクラスでもあまり目立たない、大人しい子でした。 友達もいないということはなかったのですが、多い方ではありませんでした。
放課後に何をして過ごしていたのかは、はっきり覚えてはいません。 他の子どもは毎日のように友達と一緒に遊んでいたようですが、私にはそういった友達も少なく、 あまり友達と遊んだ覚えはありません。外で一人遊びをしていたのかもしれません。
私の両親は、仲のいい普通の夫婦だったと思います。 母は専業主婦で子育てや家事担当、父は仕事担当という、当時としてはごく一般的な夫婦でした。
母は、子どもをガミガミ叱り、また、子どもの欲しいものをちっとも買ってくれない、庶民的なごく普通の母親だったように思います。 強いて言えば、私については「長男だから少し厳しめに育てた」(母談)とのこと。
父は母に比べておおらかな人で、母のように私にガミガミ言うことはありませんでした。 こんな父でしたが、次第に体調を崩すようになり、私が小学3年の頃になると、近くの病院に入院してしまいました。
(続く)
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02/02/2008公開