過去スレをたどっていたら、kさんのスレを見つけたので、なんとなく投票してみました。
「場面」を厳密に区分けするのが難しいので「う~ん」と悩んでしばらく押せなかったものの、とりあえず「そうなる」を選んでみました。(真ん中の空白がOK部分なのかNG部分なのか理解できていなかったのもあって悩んでました)
Quote:
>場面緘黙の「場面」ですが、私の場合は、学校をはじめとして家族に接点のある場所や人がだめでした。
これを見ると自分も同じなのかな~という気がしたので、「そうなる」にしてみました。^^
自分は、食卓で声を発することもまずないしなぁ~とか思って。
(あ、それだとドーナツにはならないのか・・・)
自分の場合、父と祖母を中心にSM・SADで、親戚関係はSAD的、家族内ではそれなりに緊張、というかんじです。
状況によっては外の人間のほうが不安が少なくて済みます。
(ただし、家族が絡むと不安増大・・・><)
まあ、もとが外でのSMなので、外では勿論かなり緊張しますけど。
家庭内と家庭外では不安の質が違うように思えます。
(外ではSAD以上にBDD的要素の方が強いと思う・・・><;
でもBDD的な話は人にはしません。興味がないようによそおってます)
いつも仮面を被って生きているような気がする。
しかもその仮面は、自分が緘黙によって作り上げてしまった幻想の仮面。
しかし、緘黙的ないい人像をやめるのも、それはそれでアブナかったりする・・・
BPDやAC関連のブログなどを読んでいるといつも思ってしまうのですが、
緘黙児の悩ましいところは、『逃げられない』とこなんですよね~(;´∀`)
BPDさんやACさんや家出少女、暴走族やら援交少女やら・・・、
みなさん家族から逃げるじゃないですか。
そうしていびつでありながらも「自由」を手にするわけです
(決してそれがいいとは言わないけれども)。
一方の緘黙児は、活動が社交不安によって制限されてしまって、
肝心の『逃げる』ということができないんですよね~
したがって、「緘黙空間」という檻の中に閉じ込められてしまって、ひたすら孤立してしまう。
そんな感じもします。。。
自分の仮面をはがし、自由を手にするためには「逃げろ」
そのためには社交不安なんて「はねのけてしまえ」
・・・緘黙児が突きつけられるジレンマ。
そして、緘黙を克服した暁には、幸福な世界が欲しいとも思える。
緘黙によってボコボコに空いた無数の穴を埋めたいとも思う。
けれど、それが次なる悲劇を生むことがある・・・
そして、最終的に人生は「味気ない平凡な日々」を生きろと突きつけてくる・・・
最近、ブログ村のBPDカテゴリの克服者のブログを見て、
自分の認知を振り返ったりしてるのですけど、
結局は、「平凡な日々を受け入れろ」という身も蓋もないことを突きつけられるのだなと、
感じている次第です。
逃げても、・・・・ひとり。逃げられない子どもたち。
どこに逃げたらいいかわからない子ども。
逃げたければ喋れ。それがいつも残酷だと感じてしまいます。
なんだかいろいろ考えてました。
ちなみに私、Linda Grahamさんの記事を富重さんにお知らせしたのがSMJデビューでした。
この記事ではないのですが、リンダさんはこの方です。
http://www.rte.ie/presspack/2007/09/30/would-you-believe-new-series-3/
まさにリンダさんはうまく逃げられたからこそ、あのようなシンデレラストーリーに恵まれたのだなあと、複雑な気持ちになります。
なんだかうまく話をまとめられませんでした・・・
語りすぎて不快にさせてしまっていたらすみません。
(ブログの内容は、個人的に、殺虫剤の件がひどいと感じました(;_;))