こうした場合についてですが、人にもよるのでしょうが、
一般に場面緘黙で話を拒否する人を甘えとするのは、少し厳しすぎるのではないかと思います。
極度の緊張から、身体がそう反応してしまうのですから。
甘えというのは一つのラベリング(レッテル貼り)ですが、
その人が発語を拒む原因の説明にはなっていません。
仮に、発語を拒否する場面緘黙児が甘えているものとしましょう。
では、その緘黙児が甘えていると言えるのは、なぜでしょうか。
それは、その緘黙児が発語を拒否しているからでしょう。
しかし、これでは循環論であり、
なぜその人が発語を拒否するのかという因果関係の説明にはなっていません。
※ 参考文献 杉山尚子『行動分析学入門』集英社新書、2005年。
それから、甘えという言葉には、その人を批難するニュアンスが含まれています。
場面緘黙で話そうとしない人を甘えと批難するのは、
場面緘黙の人に暗に発話を強要するようプレッシャーを与えることであり、
症状を悪化させる恐れがあります。
また、場面緘黙の人の多くは、話ができなくて苦しい思いをしているものと思われます。
そうした人たちに「甘え」という批難めいたレッテルを貼るのは、慎重にした方がよいと思います。
古林さんのケースは、詳しくはよく分かりませんが、
そこまでご自分を責めなくてもいいのではないかと思います。
なにはともあれ、なんとか小さな声で挨拶をできるようになった、
自分で自分を褒めてあげればいいではありませんか。

※ 長文になって、スミマセン。m(_ _)m
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