ルディと申します、こんにちは
改めてちょっと自己紹介を兼ねた近況報告・・今高校1年生の子どもが、幼稚園から緘黙でしたが、中学時代はホームスクーリング(学校に行かない・・)を選び

、この春から、美術を学ぶ為専門課程のある公立高校に通い始めたところです
現在の状況としては、お友達も出来、必要な会話には大きな問題はないようです。やはり、自分の心からの目的を見つけることが出来たとき、必要なこととそうでないことは明確になり、意志の力を発揮することが出来るようになるのかもしれないと感じます。実は一度も病院等で治療を受けたことがないので、おそらく、周りのたくさんの方に支えられ、たくさんの褒め言葉や、温かい心をいただき、勇気や自信を持てたお陰かな?と感謝しています。とは言え、今後とも、不安を持ちやすいことや、完全主義的な心の持ちよう等があまり大きくなりすぎないように、気を楽に持つ努力をしていかなくてはいけないと考えているところです。
ところで、赤ちゃんの頃のお話について、感じたことがあったので、書き込んでみたくなりました。
保育器に入っていたことが場面緘黙に影響を与えているかもしれないということ。確かにそうかもしれないですね。ですが、実際のところははっきりわからないとも感じます。あのことがあったためにこうなってしまったのかもしれない、一日も早く治るといいが・・。それは子を思う親心ですね。
ですが私のようにひねくれ者としては、こうも考えてしまいたくもなります。場面緘黙を病気として、マイナスなこととして捉えるから、マイナス要因が思い浮かぶのではないのか?と。そう考えることも理解の上で必要でしょう。けれどもそこはバランスをとって、というか実を言えば心してそうしたほうが、こうした子どもの為に良いと考えているのですが、その逆の発想がいっぱいあったほうがいいのではないかと思うのです。
例えば我が家の場合で恐縮ですが、場面緘黙になった娘は、出産時、またその前後に問題はありませんでした。それどころか、次女でしたのではじめから母乳もたっぷり出て、退院時には一緒にいた赤ちゃんの中で一番体重が増えていたので、先生から優等生だねと褒められてしまったほどです。ですが、生まれて数ヶ月の頃から人見知りが強く、幼稚園では一言も発することはありませんでした。一方、小さい頃からものすごく活発で目立つこと全然OKの長女は、出産時に少し問題があり、いろいろと苦労した赤ちゃんだったのです。ですから一概に言うことはできないという気がしてしまいます。
私が、赤ちゃんの頃の次女のことで、真っ先に思い出すことといえば、病院から連れて帰ってすぐの頃から、いつも女神様のように美しく微笑んでいたことです。よく眠り、良く食べ、穏やかで優しい様子をしていました。優しく繊細で、じっとビー玉や水などの光との交錯、形の移り変わり、転がる様子を観察していて飽きることがありませんでした。あまりにもじっとしているので心配になって名前を呼ぶと、本当に満足した様子の顔いっぱいの笑顔でゆっくりと振り向くのです。生来、美しいもの、不思議なものと一緒に存在する状況に心からの喜びを感じることが出来る、そんな感性あふれる赤ちゃん、幼児期であったと思います。
逆に長女の場合には、まだ座ることも出来ないうちから、手足を一生懸命動かして、まるで走っているような様子でした。そして、そういう時は自分の体がそのように動くことを心から喜んでいる様子でケタケタと笑い声を上げるほどでした。
このようなことから、何を通して、この世界に存在できた喜びを感じるのか、は生来のものが大きいのかもしれない、ということを感じます。つまり、その感性を与えられているのだと感じます。けれども、このことを病気的な観点からとらえれば、次女は自閉的傾向、長女は多動的傾向ということになるのかもしれません。
そして、もともと持っている傾向、感性にはプラス面、マイナス面があることでしょう。親に出来ることはその両方をしっかりと見つめながら、子どもを育んでいくことだと思います。大きく素晴らしい素質だからこそ、大きなマイナス面をはらんでいるのだと捉えて、子どもの素晴らしい資質に対する尊敬の気持ちを忘れず、ゆったりと安心しながら、喜びを持って子育ての時間を過ごしたいと考えます。
なんて、ちょっと偉そうになりすぎで、噴出してしまいそうですが。ボケボケ主婦の私も、そんな風に、いろいろ考えてみています。
長い文を読んでいただき、有難うございます!