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14 件の記事    1   2   
題名: ごめんなさい
投稿日時: 2007-09-03 09:29:17
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またうっかりしていました
上の書き込みはルディでした・・いつもごめんなさい :oops:


題名: 私もよくわからないのですが
投稿日時: 2007-09-03 09:26:59
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娘も、挨拶してくれるお友達から顔をそむけたりしていたのですが、
どうしてそうなるのか、私もよくわからないままです

あとでその子についてどう思っているのかさりげなく聞いてみると、とてもいい子で尊敬していると言っていたことがあります

今子どもは、高校に入ってから学校でも家と同じように話が出来るようになったのですが、学校で勉強できるのはとてもいいけれど、ひとりで教われればいいのにな~、人と付き合うのが苦手だ・・と言います
それは、性格なのか、対人恐怖なのか、社会不安なのか、ただ本人にとってお話したいと思う人のレベルか何かがあって、それに達している人がいないのか・・・(尊敬している先輩とはよくお話しています)、適当な付き合い・・というのが、苦手・・そんな気がします

心のことを行動療法ではあまり取り上げないで、不安という一言で終わりになっている気がします
遺伝的な傾向はあったとしても、ある程度子どもが大きくなっている場合、不安をまず意識に上らせて言葉で解きほぐしてあげたいと思ったときに、なかたさんがおっしゃるように心の問題として考えてみたい、ずっと先まで考えると、今からその視点を持っているほうがいいと私は思います

古本屋さんで講談社現代新書「対人恐怖」内沼幸雄著を見つけたので読んでみると、「人見知り」の意味という項目で、かなり納得できる答えを見つけたような気がしました
この方は日本人なので、シャイに対してアメリカ的な発想ではなく
その良さということも述べられているので、共感できる気がしました
(ただ、逆にこの本では遺伝的な気質については書かれていないので、問題が本人や家族関係に帰せられてしまう可能性があるかと思いましたが・・)
ただ、その内容をここで一言で説明できる自信はありません
また、この本は少し古い〈平成元年)のかもしれません

場面緘黙の研究は遅れているかもしれませんが、「対人恐怖」は日本でもよく研究されているようですね
社会不安障害という名前では、研究されているのかどうかわかりませんが
読んでみると、ほぼ同じもののような気がしました

場面緘黙ということについ気持ちが行きますが、外国の研究は外国の精神的背景から生まれてきているという面もあると思いますので、日本で今まで「対人恐怖」という名前で研究されてきたことも、合わせて見てみると、とても納得できる、そんな気がしています
いろいろな面から情報を得て多角的に理解し、その認識を日常レベルで細かく生かして手助けしていけるといいなと私は考えています


題名:
投稿日時: 2007-09-02 21:14:43
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はじめまして。書き込みありがとうございます。

うちの子供は場面緘黙症と思われますが、学校で話さないことを除けば学校生活は順調にいっています。
少なくとも本人はこの状況をなんとかしたいという意思はあるようですし、周囲にはうちの子供を見かけると好意的に話しかけてくれる子もいるようなので、うちの子供がなんとなく孤立しがちなのは話さないから周囲に無視されているというよりは、話しかけても反応しないので最終的に放っておかれるという状況のように感じます。

本などを読みますと緘黙の人は強い緊張状態のため声を出すことが出来ないというようなことが書かれており、私自身もと場面緘黙症であったため、そのことは十分理解できるのです。しかし、いつも感じることは自分が場面緘黙症だった頃、話すべき時に声が出ないことに不自由は感じたけれど、人とおしゃべりをしたいと思ったことはないような気がするのです。

だから、うちの子供が学校以外で偶然クラスメートに会ったりしたとき相手を避けるような行動に出るのを見るたび、話せないことに対する劣等感からなのか、それとも人と接することが好きでないのかいったいどちらなのだろうと思います。

うちの子の場合、余計な手をださなければ無事に今の学校を卒業できそうな気はします。その代わり、将来、本人は大きな痛手を負うことになるかもしれません。
現在、スクールカウンセラーや担任の教師とも相談中ですが、話す、話さない以前に心の問題の方が重要なのではないかと私としては思うのです。


題名:
投稿日時: 2007-09-01 13:11:03
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 145
はじめましてルディです

緘黙の前提としては、環境に対してとても身構えてしまうということがあるように思いますので、良かれと思ってすることも、先に学校生活全体に対してリラックス出来るようにする配慮がないと、新たな課題を前によけい身構えてしまい、もともと持っているいろいろな心配が大きくなってしまうとか、自己不信に陥って人から離れたくなってしまうとか、そういう可能性はあるのではないでしょうか
けれども子どもによっては、ちょっとずつ誰かと話してみたいと思える心の状態にある場合もあるでしょう

その子が今どういう状況かによって、手助けの仕方もずいぶん変わってきてしまうかと思いますので一概には言えないと思います
ですが、もし話す努力をするとすればその前に、心がある程度安心してほぐれていることがなければ、頑張るほど出来ないというジレンマに陥ってしまうような気がします

うちの子の場合には、今はプライドもあって、二度と不登校は嫌だと言っているところを見ると、不登校であったことはよほど不本意なことだったようです
現状では、不登校になるとたくさんのデメリットがあり(社会通念上それがいけないことのように認識されることが大きな心理的負担になると思いますし、子どももそのことを気にしてしまうでしょう)、それを逆にプラスの経験にしていくためにはかなりの心構えが必要だと思います
公のサポートが無いかもしれないので個人として考え決めていかなくてはならないことが多く、親はよっぽど強い心で子どもを支えていかなくてはならないと思います
ただ、もしそれが上手くいけば、うちの娘のようにかえっていい結果を出せるかもしれませんし、自分たちで自分の人生の過ごし方を決めていい、というのは、本来なかなか楽しいことでもあるのですが、そういう自由な発想に慣れることが難しいかもしれません
そんなわけですから、不登校の時間をどうとらえるかで、それが悔やまれる経験となるか、かえってよかったと思えるか、違ってくることでしょう

学校で話せない、またそれを回りがどうしても分かってくれない状況がある等が非常に大きな心の負担になっている場合、ある限界を超えて鬱や病気になってしまうとか、社会に対して嫌なイメージしか持てなくなってしまうとか、もしかしたら、無理をさせないほうがいい状況もあるかもしれないと思います

いろいろな判断は難しく、個々に考えなくてはならないでしょうし、またどんな判断をしたとしても責任を持ってサポートしなければならない
ほんとうに大変ですが
なかたさんは親御さんなのでしょうか?
なんとなく親御さんだと思って書いていますが、違っていたらごめんなさい
もし大変であったとしても、親子で取り組める課題があることもまた貴重な経験かもしれません
私は子どもと共に悩み、乗り越えることが出来たことは、自分にとって普段出来ないようなたくさんの学びの機会を与えてくれたと思っています
ぜひお子さんを強く暖かくサポートしてあげていただきたいと思います


題名:
投稿日時: 2007-09-03 22:11:10
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ルディさんありがとうございます。

私が場面緘黙症について心理面を考えるようになったきっかけは、子供の場面緘黙症に参考になることはないかとネットで調べているてよく見かける書き込みです。

そこで親御さんは子供がどうしたら話せるようになるか悩み、当事者の子供(この場合は思春期以降のことが多い気がしますが)は自分の人生が上手くいかないのは緘黙症のせいだがどうすることもできないと悩んでるように見えるのですが、少なくも私は緘黙症を克服したことによって、話せない不自由は解消したけれど、人生がすばらしいものになったような気はしないし、むしろ、話せるようになったことで、自分には協調性のないこと、みんなでワイワイやっているより一人でいるほうが好きなことに気づき、自分自身は社会において不適格な人間であると自覚することが多くなりました。

一方、何らかの障害でまったく口をきくことの出来ない人に過去何度か出合ったことがあるのですが、彼らはまっすぐ人を見つめ、こちらに用事があるときはなんら躊躇することなく身振り手振りで自分の意思を伝えようとします。それを思うとどうして特定の場面で声を出せないことにそんなに絶望を感じるのか不思議になります。

そうなると、場面緘黙症は話せないという現実に気をとられがちですが、言葉自体は症状のわかりやすい一部でしかないかと思えてくるのです。


題名: 場面緘黙症と不登校
投稿日時: 2007-08-27 09:14:06
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場面緘黙症で不登校というケースをときどき見かけます。

本人が思春期以降で自覚がある場合、クラス替え、学校が変わったときなどをきっかけに話せるようになりたい、話そう、考えるのでは?と思うのですが実際には上手くいかず、「話さない人」というイメージが定着してしまうことがあると思います。

その場合、話さないことが原因でいじめにあったりなどすれば、不登校の原因になるかと思います。

しかし、本人としては、「話さない人」というイメージが定着してしまい、再び頑張れるような気になれず、話せないことにコンプレックスを感じつつも、不自由を感じない、あるいは他人との接点を自ら放棄してしまった場合、緘黙症を治すために周囲が努力するほどプレッシャーを感じて学校にいきたくなくなる、というようなことはないのでしょうか?

また、緘黙症が原因で不登校になってしまった人は、あとで当時を思い返して辛いけれど学校に行けばよかったとおもっているのでしょうか、それとも、当時の状況では仕方がないと思ったのでしょうか?


題名:
投稿日時: 2007-09-06 12:55:13
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 145
そういえば、子どもが不登校中に旅行にでも行こうということで、過疎の山里のようなところに行ったのですが
宿のそばに暮らしている奥さんは、声が出ない方のようだったのです、それとも耳が聞こえないのかもしれません、わたしはそういうことが良く分からないのですが

その奥さんが、朝、素敵なかすりの野良着と「しょいかご」姿で出かけるときに、何回か「お話し」させていただいたことは、いったいどういうことなのだろう?というような疑問というか、考えてみたいこととして強く印象に残っています

その方は私たちを見つけると、すぐにそばにやってきて、親しみをこめて「話しかけて」くれました。笑顔で、「ここに泊まってるの?」とか、「あんたの子どもたちなの?」とか・・声では言っていないのですが、目線や身ぶりで、通じてしまいますし、私は私で「そうです、そうです」と声で言ってますが、気遣いなしに通じてしまっているというか、とても楽しくコミュニケーションできてしまったのです

こういう山里では、人と違っていても気にする人はいないし、本人も気にせず堂々といられるのかな、素敵なことだな・・と思ったのです
その話を私の尊敬する方に話してみると、それはその方の心の持ちようが素晴らしいのだと教えていただきましたが

ただ、また別の角度から考えると、例えば私はひととワイワイするのは、そんなに好きなほうではありませんが、出来れば礼節ある距離感を保ちたい、そう思っても悪くは無いと思います

子どもの集団では、常に礼節ある態度で扱われることを望むことは出来ないでしょう
例えば意味も分からず何かをどんどんやったり、わいわい盛り上がるよりも、静かに物事の本質を見つめる態度で自覚的に存在したり行動するほうが合っている・・という(無意識にせよ)そういうタイプの子が、もしいたとしたら、その集団での生活のあり方や友人たちの様子に解け込めなかったとしたら、そしてその違和感を封じ込めるうちに、お話し出来なくなってしまうというようなことはないのだろうか?
わたしは子どもを見ていると、よくそんな風に思うのです

緘黙の経験があって不登校の経験はない方に、うちの子が不登校だと伝えたときに、「それは重症ですね」と言われたことがありますが、「重症」というのは学校という集団からの距離感で言うと、より遠い、だから病気が重い、という感覚なのでしょうね。不登校が、健康だったり幸福だったりはしないと・・
そんな反応を見ていると、もしかしたら個人として存在することに日本人は慣れていないのではないだろうか?人と違っていて集団から外れて存在することが、病気や罪悪であるかのように思うことは、私にとっては不思議なこととして感じられます
同じようにアメリカでは、自己主張しないことや積極的でないことが、病気であるように感じる傾向にあるのではないだろうか、その場での支配的な考えから外れると、本人も回りも病気やいけないことのように思う、そんな傾向があるような気がします

何かをいけないことのように思うこと、それが山里のおばちゃんのような、屈託のないほがらかさや、人への素朴な親しみの心を奪ってしまうのではないかなとも思います


題名: なかたさんへ
投稿日時: 2007-09-06 23:20:03
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こんにちは。はじめまして。かんもくネット(Knet)のけいこと申します。
なかたさんの書き込みを読んでその通りと思いました。

>少なくも私は緘黙症を克服したことによって、話せない不自由は解消したけれど、人生がすばらしいものになったような気はしないし、むしろ、話せるようになったことで、自分には協調性のないこと、みんなでワイワイやっているより一人でいるほうが好きなことに気づき、自分自身は社会において不適格な人間であると自覚することが多くなりました。

一方、何らかの障害でまったく口をきくことの出来ない人に過去何度か出合ったことがあるのですが、彼らはまっすぐ人を見つめ、こちらに用事があるときはなんら躊躇することなく身振り手振りで自分の意思を伝えようとします。それを思うとどうして特定の場面で声を出せないことにそんなに絶望を感じるのか不思議になります。

場面緘黙症の診断は緘黙症状に対して診断がおりるため、
話すことに注目にいきがちですが、
問題は話せないことではなく、「社会不安」にあるので。
近年の研究では、場面緘黙は小児期の不安障害で、恐怖症の1つのタイプと考えるのが主流のようです。
海外の場面緘黙症サポート団体、アメリカのSMartセンターやイギリスのSMIRA(このサイトの緘黙資料をクリックしていただくとKnet資料に行きます)や、最近翻訳になった「場面緘黙児への支援」にもそう書いてあります。

>そうなると、場面緘黙症は話せないという現実に気をとられがちですが、言葉自体は症状のわかりやすい一部でしかないかと思えてくるのです

本当に仰るとおりと思います。資料の中にも、緘黙の症状は不安のあらわれの1つであり、氷山の一角に過ぎません、と書いてあります。


題名:
投稿日時: 2007-09-07 09:18:33
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ありがとうございます。

私は自分が憂鬱になりやすいのは生まれつき鬱の気質をもっているせいであり、緘黙症とは関係ないと最近まで思っていました。
ところが、元緘黙症者は言われたことに返答はできるけど、いわゆる雑談が苦手だという人が多く、そこまではいいのですが行き着くところが、こんなことでは「生きていてもしょうがない」ということになり、あれれれ?と思うのです。

私は今でも人付き合いは苦手ですが、鬱の気質だから普通のことが辛く感じるのだと自分に言い聞かせて頑張ってきましたし、それなりの成果も上げています。
それで、最近思ったのは緘黙症の克服は苦手なスポーツの習得に似ているかな、ということです。

例えば何か流行ってるスポーツ、球技ということにしましょう。
全緘黙→離れたところで他人のプレイを見ている状態。自分の近くにボールが転がってきてもボールに触ろうとしない。
場面緘黙→一部の親しい人とはボール遊びをする。
他人の問いかけに返答できる→他人の前でボールを投げることができる状態。

さて、本人や周囲はボールを投げることが出来るのだから当然そのスポーツを皆で楽しめると思います。ところが、実際ボールを投げてみるとコントロール不能でやっぱりこんなのつまらない、という状況に陥ってしまうのです。
そこで、誰かがボールの投げ方とかスポーツのルールを教えてくれればいいのですが、たいていの人は「そんなの見様見真似でできるでしょ!」と思っているしそこにいる大多数の人はそうやって覚えてきたので誰も助けてくれないんですね。
幼児期の緘黙症は分かりませんが、思春期以降についてはそこのところのフォローが足りないと思います。

緘黙症の人は人と目を合わせるのが苦手だとか、表情に乏しい(笑えない)とかいわれますが、私の場合、緘黙症が治った後もその症状は消えなかったし、だいたい自覚すらありませんでした。悪意のない知人に指摘されて初めて気づいたのです。言われた当時はわざとじゃないし、自分はこういう性格だからしょうがないと思いましたが、社会に出た後いろいろ思うところがありまして、試行錯誤をしながら自力で直しました。
子供のスクールカウンセラーに人と目を合わせるのが苦手なのを自力で治したと言ったら、「どうやるんですか?」と聞かれたので緘黙症の治療については実務においてもいろいろ難しいところなのだなと思いました。


題名:
投稿日時: 2007-09-07 10:54:58
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なかたさん、はじめまして。
6歳緘黙児の母です。

緘黙克服を苦手なスポーツにたとえる、というのが
とてもわかりやすいですね。

私はスキーができません。
滑れる人に どんなにスキーの素晴らしさを説かれても
寒いのが苦手だし怖いし、やりたくないです。

一度挑戦しましたが、ちょっと滑って「やっぱりムリだ」という感じでした。
「なんで滑れないのよ!」と言われても、滑れないものは滑れない。
滑れる人から見たら不思議かもしれませんね。
スクールに入ってちゃんと習えばそれなりになるかもしれませんが
そこまでする気もなく。。。

緘黙も同じことかもしれませんね。

●スキーは滑れれば楽しいけど、滑れないからつまらない。
●話せれば楽しいけど、話せないからつまらない?
(言いたいことを言えなくてつらい思いをすることもある。)

スキーはできないけど、子どもとそりすべりをしたのは楽しかったです。
雪も寒いのも苦手だけど、来年の冬もスキー場に行きたいと思いましたもの :D

楽しそう!やってみたい!ということや、
話せなくて困って なんとか話せるようになりたいという思いが
緘黙克服につながるかもしれませんね。


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