ルディ
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題名:
お医者様のおっしゃったこと
投稿日時: 2006-11-24 09:04:11
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登録日時: 投稿記事数:
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ごめんなさいさきほどのコメントの題 「それで十分」と言われてしまったことについて 書くのを忘れていました
先日、心のクリニックでお医者様にお会いした時に 私自身の現状の捉え方、今後の方針について、またアメリカの支援グループに登録し情報を得ていること等を、お話ししてみたところ 「それで十分なので、もう通院する必要は無い」とのこと
そうなの???と私は大変驚きました なぜかというと それは2回目の通院の日だったのですが 1回目には先生は、場面緘黙の子に対する治療を行っており それは「薬」や「箱庭療法」で 少しずつ良くなっているとのことだったのです
この内容についても私は少し疑問を持ちましたが・・
場面緘黙のこと本当によく知っているのかな? というのが、私の感想です
もしかしたら精神科医でさえ、また、こどもと思春期の子のための 大学病院付属の「こころのクリニック」でさえ よくわからないのでは?
それでもそこに行くのには時間とお金を費やしたのですから 知らないなら知らないと現在の医療の限界についても はっきり言ってもらいたいものです もし私が自分の考えを持っていなかったら、 今頃、薬を飲んだり「箱庭療法」をやっっているのかもしれませんが 本当にそれが必要なことなら なぜ私が自分の方針について話した後にも それをやらないのか、なぜ私の考えで十分なのか さっぱりわかりません
皆さんも、このようなことに振り回されることの無いよう 参考までに・・
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かいわれ
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題名:
投稿日時: 2006-11-24 12:27:54
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登録日時: 投稿記事数:
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みくさん みちさん ルディさん こんにちは
皆さん場面緘黙症児の親御さんとして、情報を集めたり、様々な専門家の門をくぐったりと、たいへんな努力されているのを聞き、いつも敬服しております。 いち場面緘黙症児として、感じたことを述べさせていただきます。
(1)専門家への期待について 親として期待を持つところですが、良い人に巡り会い、その関係を続けていくのはたいへんだと思います。 ありふれた(しかし本人には深刻な)高血圧症の治療ひとつとっても、良いお医者さんにかかりつけることは、たいへんです。 評判を聞きつけて紹介してもらっても、同僚の医師が受け持つことになったり、転勤しちゃったりで、束の間の喜びとなることも多いです。 一方、セラピストといえど複数の患者(来談者)をみています。 まして一緒に暮らしているわけではありませんので、親御さんが「こうなんだから!」と訴えても、「実体験を伴わない共感」に留まる場合もあります。 関わりにも限界があるということです。 ルディさんのお話ですが、治療(処遇)方針を巡っては、医師やカウンセラーの意見を尊重しつつ、こちらの意向を上手に伝えていくことが必要です。 “ご機嫌をとる”必要はないでしょうが、信頼して頼っている旨を伝えることは不可欠です。 確たる定石がない中で、この家族なら自分で道を開いて行かれそうだ、となれば「それで十分」ですともなるかもしれません。 でもちょっと説明不足ですよね。「えっ?すぐひっこめちゃうの?」って。 治療という要素よりも日常的な関わりの積み重ねこそが、子どもさんの行く末を左右しますから、専門家の手を借りつつも、実は親の手に委ねられているのが場面緘黙症児の対応なのではないでしょうか。 みちさんのおっしゃるように、日頃の関わりをセラピストに点検してもらいアドバイズをもらう、という“後方支援”にならざるを得ないのでしょう。
(2)「適応」の価値観について ルディさんのおっしゃるように、「話せる」「世間とうまくやる」「学校にとけ込む」などの“適応”が人生の主目的ではありません。 皇太子妃雅子さまは「適応障害」で療養されておられます。妃としては公務でにこやかに笑顔を絶やさないことが要求されます。 彼女の場合は、再びそうできること――適応――が望まれるのでしょう。辛いところです。 精神科医やセラピストは「適応」を第一に考えがちですが、私の周りの人達は、だいぶこちらの視点に降りてくれ、本人のQOL(生活の質)を重視してくれます。 具体的に言えば「今の職場が負担ならば、いっそ辞めてのんびりしたところへ職場を変わったら?」という具合です。 私自身、一時は「主夫(主婦業)」になることも考えました。 今目の前にある環境に戻ったり、元のサヤに戻るばかりが社会適応の王道ではないはず、という意味ではご意見に賛成です。
(3)親が与えられる子どもへの将来について たいていの親はだれでも、子どもに良い環境を与えたいと考えます。それには子どもがどのような物を欲しているか、という視点を抜きには考えられません。 究極的な目的は、「子どもが将来一人で飯が食って行かれるか(女の子なら、幸せな結婚ができるか、というのもありでしょう)」、が第一で、「生き甲斐のある職業につく」という要素も捨て置けないでしょう。 その目的を全うするには、「子どもが適切に判断できる年齢になるまでは(いつそうなるのかは議論が分かれます)、なるべく間口を広くして見てあげ、適正らしきものが見えたら、そこに可能な限りの時間や金と労力をかけてあげる」ということだと思われます。
最も言いたいことは、「子どもがわかるようになるまでは、親の価値観にとらわれず、的は絞りつつも、最大公約数の支援を講じる」、ということです。 そのため、話さないよりは話せるよう、こころのつっかえは取ってあげたい、特定の場面で緊張しているよりは、よりリラックスできる精神状態でいるよう考えてあげる、というのは必要でしょう。 始めに「話す」という目標ありきでなく、気持ちにアプローチしてあげ、あわよくば「話せる」機会をもてるようにする、という事だと思います。
私自身の生い立ちを考えても、「嫌がっても、そろばんは習わせて欲しかった」とか、「怖がらず武道をやらせて欲しかった」「あの時もっと黙って見守っていて欲しかった」「いろんな職業に触れる時間をつくって欲しかった」などと思います。――それにとらわれているわけではありませんが……。
長くなりましたが、感じたことを述べました。
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みち
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題名:
ルディさんへ
投稿日時: 2006-11-24 12:51:33
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登録日時: 投稿記事数:
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ルディさん、先日は息子の詩に対してすばらしいメッセージをありがとうございました。
お子さんが学校に行けない状況で、緘黙治療などど言われると「うざい」と思われるでしょうね。私もいつそういうことになるかわからない状況でこれまで過ごしてきて、一時はストレスのため食欲もなくなり体重がかなり減ったりしたので、なんとなく想像はしていますが、不登校のつらさは当事者でなければ理解できないものだと思います。
いちいち発言に違和感を感じてしまうのも無理もないことと思いますが、「そういう考え方、やり方もあるだろう。たまたまうまくいっているだけ。」くらいの気持ちで読んでくださいね。
>世間とうまくやっていけないことが なにか自分の欠陥のように 感じなくてはならないのか? そんなに学校は素晴らしいところなのでしょうか?
学校は繊細な子どもたちにとって素晴らしいところではないと思います。学校で人並みにやれないことが、自分の欠陥のように感じなくていいように、根気よく教えていくのは親の仕事だと考えています。いろんなことが重なって学校に行けなくなってしまった場合は特に、そのことで子どもが自分を否定しなくていいように、親は「そのままのあなたで何も遠慮すべきではない」と伝え続けていかなければならないと思います。
でも、一方で、つらくても学校に踏みとどまろうとする子どもたちに対しては、なんとかして周囲の理解と協力を得て、できるだけ過ごしやすいように環境を整えていただき、また、子どもが自信を得られるよう応援をしていく必要があると思います。それは、「世間並みの幸せという価値観」を押し付けることだとは思いません。子ども自身が心の奥では「みんなと同じようにできるようになりたい」と願っているのではないでしょうか。少なくとも、「学校に行き続けるという選択をしている」子どもたちはそうだと思います。
「話さなければならない」ということが最初にきたらまずいのです。ルディさんがおっしゃるとおり、 >まずは周りが現在のままの子供を完全に認め受け入れる体制をとること そのままで尊重すること がまず初めになければいけないと思います。 集団になじめるように、本人を変えようとするのではなく、まず、周囲のかかわり方を変えてもらえるよう、学校側と交渉をします。
このことは、3年前に児相で指導を受けることができたから、実現できたことでした。うちの息子の場合は、「場面緘黙症」という診断名ではなく、「高機能自閉傾向を伴った場面緘黙状態」という微妙な診断名でした。「2~3年後に全県に整えられる特別支援体制の対象児童に入る」ということで、「文部科学省のホームページに載ってましたと学校側に告げ、堂々と要求するように」との指導をうけました。
また、教室に入れなくなって保健室登校をしていた1年の5月には、「特別支援体制の前衛的取り組みとして、勉強が遅れないように、校長先生とか保健室の先生に、プリントなどの配慮や個別指導をしてもらえるよう要求するべき」とまで言われました。幸い、そこまで行かないうちに、息子は授業に復帰してしまいましたので必要ありませんでしたが、保健室登校が長引いていたらやっていたかもしれません。
残念ながら、純粋な場面緘黙児に関しては法整備はまだのようですが、「特別支援」の考えが入ってきて、ここ数年で学校現場の考え方も変わりつつあると聞きました。少し前までは「特別扱いできません」と冷たくあしらわれることが多かったと聞きますが、今は「特別扱いしてください」というお願いをある程度受け入れていただけるようになっているみたいです。息子は、運よく、ちょうどいいタイミングでその恩恵を受けることができました。
>子供にむかって今のあなたは不完全だから 完全にならないと世間では受け入れてもらえないのよと 無言のメッセージを送ることにはならないのだろうか?と考えます >また逆説的になりますが もしも子供が自分から話してみようと思うとしたら 完全に今のままの自分が受け入れてもらえる そのような環境においてではないかと思います
おっしゃるとおりだと思います。うちの子の場合、学校がそのような環境に近づいて、さらに子どもが成長し、自分でなんとかしたい気持ちが芽生えたため、会話練習がスタートしました。親が勝手に考えて、本人の意思も確認せずに始めたことではありません。うちの子は情緒的に遅れているとは言っても中学3年生ですから、なにごとも最後に決めるのは息子自身です。ただ、子どもには学校側と交渉する力はありませんので、「親が決める」といった言い方になってしまいました。誤解を招く表現だったかもしれませんね。
話させようとすることが治療のスタートではありません。「周りが現在のままの子供を完全に認め受け入れる体制をとること」が治療のスタートだと思います。「治療」という言葉が「子どもを変えようとすること」と感じられ、不快に思われているとしたらごめんなさい。でも、ルディさんは、"helping"本の内容や、海外のサイトの治療プログラムにも詳しくていらっしゃるんですよね。私は、英語力がないので、情報源は主にこの「場面緘黙症Journal」だけですが、ルディさんは「治療」の全体像を把握していらっしゃることと思います。
>子供に対して親は絶対の自信を持ち 本人にもそれを持ってもらうこと それが最も必要なことなのではないかと・・
本当にそう思います。その上で、一人ではなかなか自分の希望をかなえられない子どもたちには、周囲の大人の援助が必要だと感じています。
うちの息子は、場面緘黙だけでなく、とても難しいものを抱えているにも関わらず、自立して親元を離れて暮らしていけるようになりたいと本気で考えているようです。「あなたには無理だから、そんなに頑張らなくていいよ。」と言うよりは、「きっといつかできるようになるから、今できることをゆっくり練習していこうね」と、言ってあげたいです。たとえ、それがはかない夢だとしでも・・・
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ルディ
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題名:
みんさん有難うございます!
投稿日時: 2006-11-24 15:39:37
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登録日時: 投稿記事数:
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少し問題発言かな?と思いつつ書き込んだ内容に対し 大変丁寧にコメントいただき恐縮しております
本当にみなさんとても賢く、柔軟性にとんでいらっしゃるので みなさんとお話できることを、とても嬉しく感じております
学校での理解を求める行動は私も繰り返し行ってきたことですが なかなか難しい面もある一方で、受け入れられつつあるとも感じています
とにかく親がそうした行動をするのとしないのでは大違いですよね
少し残念だったのは うちが不登校になっているから、学校になじませようとすることを 私がうざく感じるであろうというお考えです
確かに、私はどちらかと言えば放任主義で 自分で困難を切り抜けてこそ 自分の人生である と思っているところがあります また子供も自分だけである程度やってきました
というのも、子供が自分の人生で 自分の持って生まれた性質から発した最大の失敗をするとしたら、 まだ私がみているうちにやって欲しいものだと 考えています
人から見て最低の状況に陥ったとしても 考えようによっては 最大の失敗からこそ最大の成果を 得ることが出来るのではないかと思います
「不登校のつらさ」は考え方ひとつで 「不登校の成果」に変えることが出来ます
たしかに始めはうろたえましたが今になってみれば 全体としては、心から良かった!と言えるのです
そして現在は「普通」に高校進学を考えていますし 好きなことも見つかり、自分を見つめなおす時間もとれて 一石二鳥どころか十鳥以上あったのではないかと思っています
親子ともども考え方に幅が出来、 なんら損失があったとは思えません
子供は少し遠いところに受験するので もし受かれば、親戚の家に下宿も考えています
そうしてでも行きたい、学びたいと言える学校ややりたいことが 見つかって、本当に良かったと思っています
また人生で一番に考えなくてはならないことを 何とするかは、人によって違ってくると思いますが 私が考えるのは、「一人で食っていくこと」よりも 今生きていることが幸福であると、 その一瞬一瞬に感じることが出来るかどうかなのではないか ということです それは現在においてもそうですし 未来においても同じです
また私は翻訳チームには参加させていただいていても たいして英語が出来るわけではありません 英語がもし苦手でも パソコンの機能でサイト全体を訳すことも出来るので 少し変な日本語ですが、誰にでも見ることは出来ると思いますので もしも興味がおありでしたら チャレンジしてみてはいかがでしょう いろいろな方の体験談がとくに興味をそそられます
私の考え方は多分とても極端なもので 私はこれを人にもそう考えて欲しいと思って 書いているのではありません
そんな考えの人もいるのか~ と、あきれていただければいいのです
それから医療機関やカウンセラーの方々についてですが 私自身が大変気難しいところがあるので そうした方々のほんの少しの無神経な発言に対しても 私は大変敏感に反応してしまうので そのやりとり自体が 私にとって非常にストレスとなることが多いです
信頼関係とまでは行かないどころか 不信感だらけ・・・なのが現状です
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みち
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題名:
かいわれさんへ
投稿日時: 2006-11-24 19:20:26
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登録日時:2013-10-18 04:45:31 投稿記事数: 255
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かいわれさん、ありがとうございます。かいわれさんの書き込みをいちいち、「うん、うん」と思いながら読ませていただきました。
>治療という要素よりも日常的な関わりの積み重ねこそが、子どもさんの行く末を左右しますから、専門家の手を借りつつも、実は親の手に委ねられているのが場面緘黙症児の対応なのではないでしょうか。 >日頃の関わりをセラピストに点検してもらいアドバイズをもらう、という“後方支援”にならざるを得ないのでしょう。
私もよくわからずに「治療」と書きましたが、"helping"本には、"intervention"(介入)と書いてありますよね。「治療」という言葉を使うこと自体、誤解を招くもとかもしれませんね。専門家の指示を仰がなくてはいけないような気になってしまいますから。
>その目的を全うするには、「子どもが適切に判断できる年齢になるまではなるべく間口を広くして見てあげ、適正らしきものが見えたら、そこに可能な限りの時間や金と労力をかけてあげる」ということだと思われます。 >最も言いたいことは、「子どもがわかるようになるまでは、親の価値観にとらわれず、的は絞りつつも、最大公約数の支援を講じる」、ということです。 >始めに「話す」という目標ありきでなく、気持ちにアプローチしてあげ、あわよくば「話せる」機会をもてるようにする、という事だと思います。
すごくわかりやすいです。なんだか、とっても勇気をいただきました。うまくいくかはわかりませんが、できるだけのことをやってみたいと思います。ありがとうございました。
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みち
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題名:
ルディさん、ありがとうございます
投稿日時: 2006-11-24 21:40:02
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登録日時:2013-10-18 04:45:31 投稿記事数: 255
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ルディさんは本当にすばらしいお子さんをお持ちなんですね。お母さんのあふれる愛情が伝わってきます。私もわが子から学びつつ、もっといい母親になれるよう努力したいと思います。
>少し残念だったのは うちが不登校になっているから、学校になじませようとすることを 私がうざく感じるであろうというお考えです
大変失礼な書き方をしてしまったようですね。 私は人間が小さいので、ルディさんのような視点に立って考えることは、一生できないかもしれません。「私だったらそう感じるだろうな」と想像してみたのですが、的外れだったようですね。ごめんなさい。
ルディさんの娘さんは、不登校という体験の中で、どのようにして自分の進みたい道を見つけるまでに至ったのでしょうか。もしさしつかえなかったら、これまでの経緯を語っていただけないでしょうか。
>また人生で一番に考えなくてはならないことを 何とするかは、人によって違ってくると思いますが 私が考えるのは、「一人で食っていくこと」よりも 今生きていることが幸福であると、その一瞬一瞬に感じることが出来るかどうかなのではないか ということです
考えさせられる言葉です。でも、私は欲張りなので、できることなら両方一緒に考えたいです。どちらかというと、うちの子の場合、「一人で食っていくこと」は望み薄というかんじですが、今生きていることはエンジョイしているようです。今日は期末テストが終了し、思い切り羽を伸ばして大好きな歌を歌いまくっていました。
英語のサイトのほうも、いつかチャレンジしてみたいと思います。いろいろ勉強になりました。ありがとうございました。
ところで、先日、2年ぶりに児相に行ってきました。私としては、これまで会った中で一番的確な指導をしてくださった児相の医師と、直接お会いできるようお願いしたかったのですが、心理士さんと話した段階で「その必要はない」と言われ、拍子抜けしました。
>場面緘黙のこと本当によく知っているのかな? というのが、私の感想です >もしかしたら精神科医でさえ、また、こどもと思春期の子のための 大学病院付属の「こころのクリニック」でさえ よくわからないのでは?
私もそういう感想です。心理士さんは、「今までお子さんと一緒にやってきた、お母さんや中学校の担任の先生のほうがよくわかっておられるのでは?」とおっしゃっていました。「発達障害に関しては十分に指導したので、もうこれ以上、専門家としてアドバイスすることは何もない」ということだろうと解釈しました。「高校での配慮は親と中学校側と高校側との連携で考えていくのがいい。」という結論になりました。
場面緘黙症に関しては、この頃相談件数が増えているとのことでした。「本とかほとんど出ていないので、何を元にアドバイスしたらいいかわからず困っている。」と言っていました。海外の資料の翻訳が手に入って、それを元に学校でいろいろ取り組み、少しずつ成果が上がっていることを話すと、「ぜひ読みたい」とおっしゃっていたので、「印刷してこれなかったので『場面緘黙症Journal』の『資料』をクリックしてください。」とお願いしてきました。
ネットではこんなに盛り上がっているのに、児童心理の専門機関には何も情報が届いていないようです。
専門家という立場では、相談を受けたときに「わからない」と言うのは勇気がいることだと思います。私の場合、幸い、これまでお会いした専門家の方々は大変誠実で正直でいらっしゃいました。息子の段階に応じて、的確なアドバイスをいただき、助けていただけたことを感謝しています。ただ、ここから先(場面緘黙症に関して)は自分でやっていかなければならないようです。そう割り切ることができて、とてもすっきりしました。
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みく
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題名:
みなさん、こんばんは
投稿日時: 2006-11-25 10:29:57
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登録日時: 投稿記事数:
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かいわれさん、みちさん、こんばんは。ルディさん、はじめまして。
皆さんのコメントを見て、色々考えさせられました。皆さん、それぞれ様々な問題に突き当たり、試行錯誤しながらやってこられて、しっかりと自分の考え方・スタンスをお持ちですね。私が息子に将来望むのは、そういう人間になることです。何事にも柔軟性を持ち、世間や常識に惑わされることなく、「自分はこうだ」という生き方ができるようになれば、と願っています。
親の子どもへの願いは、やはり「親亡き後も、幸福に生きて欲しい」ということにつきるのではないでしょうか。しょせん人間は社会的動物なので、社会の中で生きるしかない訳で、社会の中で自分という人間との折り合いをどうつけていくか、が問題のような気がします。アウトサイダーだって全然構いません(ちなみに、私はSmithの大ファンです)。世間ではハキハキした活発な子どもが評価されがちですが、世の子どもがみんなそうだったら、画一的で気持ち悪いだけですよね。どんな子どももいいところを持っているはずなので、そこを伸ばしてあげて、自分らしく生きて欲しい。それを緘黙症が邪魔しているのなら、やはり治してあげたいと思います。
>世間とうまくやっていけないことが なにか自分の欠陥のように 感じなくてはならないのか? そんなに学校は素晴らしいところなのでしょうか?
私自身、学校での集団生活は好きではなかったし、長い人生の中で学校なんかほんの小さな要素でしかない、とは思います。でも、実際のところ子どもが学校に行かなかったら、勉強を含めて学校で学ぶ以上のことを教えてあげられる自信は全くありません。特に、同年代の子ども達から学ぶことは大きいと思うので。「不登校のつらさ」を「不登校の成果」に変えることが出来たルディさんと娘さんは、すごいと思います。皆がするから進学するという風潮の中で、「行きたい、学びたいといえる学校ややりたいことが見つかった」という娘さん。本当に、素晴らしいと思います。その背後には、娘さんとルディさんの、想像できないくらいの努力と苦しみがあったんでしょうね。
>もしも子供が自分から話してみようと思うとしたら 完全に今のままの自分が受け入れてもらえる そのような環境においてではないかと思います
みちさんもおっしゃってましたが、これは治療(不安からの開放)の出発点ですね。息子の場合、4歳半で緘黙・緘動が酷くなり、登校拒否(イギリスではこの年でもう小学生です!)寸前だったところを、家でクラスメートと遊ばせるプレイデートと、学校の協力で切り抜けました。固まってひとつの机から移動することもできなかった状態から、少しずつ、少しずつ課題ができるようになり、友達と接することも増えてきて、笑顔がでるようになった時は、本当に嬉しかったです。そして自然に仲良くなった友達に囁けるようになり、先生にも声が出てくるようになりました。それだけでなく、私なしで友達の家に行けるようになったり、友達のお母さん達とも普通にしゃべれるようになったり、と色々成長がありました。 人間にとって「話すこと」は、コミュニケーションを取る手段としてごく自然な行為だと思うのです。「友達や先生と話したい」と心の中で思っている、本当はおしゃべりの緘黙児が多いのではないでしょうか?なによりも、「話せないこと」で、子どもが沈黙のうちにひとりで苦しんでいるとしたら、やはり親や先生が介入すべきだと思います。
>子供に対して親は絶対の自信を持ち 本人にもそれを持ってもらうこと
「子どもをありのまま受け入れる」ことは、私にはとても難しいことでした。2歳くらいまでよく癇癪を起こして泣く子だったので、子育てに対する自信のない、情けない母親だったと思います。話ができるようになってから、どうして泣くのか、何故こんな反応をするのか(今考えると感覚敏感や不安が原因のことが多かった)理解できるようになって、やっと子育てを楽しめるようになりました。私はまだまだ修行が足りないので、今でもふと「普通にできればいいのに」、と思っている自分に気付くことがあります…。
>最も言いたいことは、「子どもがわかるようになるまでは、親の価値観にとらわれず、的は絞りつつも、最大公約数の支援を講じる」、ということです。
かいわれさんのコメント、要点が簡潔に書かれていて、とても参考になりました。「親の価値観にとらわれず」というところが難しいですね。
>学校で人並みにやれないことが、自分の欠陥のように感じなくていいように、根気よく教えていくのは親の仕事だと考えています。
緘黙児の多くは劣等感が強いと思うので、これはとても大事なことですね。みちさんが息子さんに英語や卓球という得意分野を作ってあげたこと、子育てのポイントだと思いました。ピンチの時に自分を支えてくれるものを持つことは、本当に重要なんですね。息子にも好きなことを習わせたいのですが、何せ新しい集団に入る事が嫌なので、自分からやりたいというまで、少し待とうかなと思っています。
>子供はほんの小さなしきいをまたぐとき 「ねえママ、ここピョンしていいの?」 いすに座るとき 「ねえママ、座ってもいいの?」な調子で 「歩いてもいいの?」まで とても細かい、自明に思われることまでひとつひとつ聞くので 少々閉口してしまいました
『緘黙症の原因は何だと思う?』から引用させていただきました。ルディさん、うちの息子も同じでした。繊細なうえに、感覚敏感があるし、自意識過剰で、劣等感が強く、頑固。臆病な割に、自分が中心でいたいという気持ちも強いという、何か生き辛い気質を持って生れてきちゃったなあ、と可哀想になります。でも、私から見るとユニークな個性の持ち主で、面白くてかわいい奴です。これからどうなるか判りませんが、彼の持つ個性を伸ばしてあげられるよう、頑張りたいと思います。
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のひめ
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題名:
みなさん こんにちは
投稿日時: 2006-11-26 15:28:13
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登録日時: 投稿記事数:
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しばらく 訪問できなかったら すごいコメントばかりで 一瞬 引いてしまいました (笑) まぁ のひめは のひめでしかないので 私らしいコメント 書きます。
みくさんへ
はじめまして・・・ ではなかったのですね。 ブログをロムしてくださってたとの事 ありがとうございます。 もう 今から思えば 緘黙の輪に あつかましくも 登録し あんな拙い文章で 世界に公開してたと思うと 恥ずかしくて 恥ずかしくて 穴があったら 入りたいです!(笑) イギリスといえば もしかして miyakoさんのお友達? (ま・まさか? イギリスは 広いですものね 失礼しました)
>イギリスでは、「誉めて伸ばす」教育の大切さを提唱しています。
おっしゃるとおりです。 日本でも この頃 『ほめて育てる』って 言われています。 しかし ブログでも 書いたことありますが 私自身 親にほめられた事がない身です。(現在も・・) 親の世代は 自分の子供を褒めるなんて そんな恥ずかしい事って言う人達ですから。 自分が 欠点ばかりを 見られて 育ってるので 私も ずっと そうして 子育てをしてきたように思います。 ・・・で 子供達が 緘黙症になったんだ!って 自分を責めたこともあります。 今からでも 遅くないですよね? 親も いっぱい 褒める努力したいと思ってます。
そして かいわれさんのいう事 的を得てると思います。
>どんな良い対応でも、合わない先生とは“こころが通わない”のだと思います。
みくさんの息子さんと先生が こころを通わされてる関係でありますようにと 祈っています (*^_^*)
みちさんへ
きゃぁ~ 一緒!って 画面に叫んだ のひめです (笑) 自慢じゃないですが 運動音痴でした。 いぇ 今も 運動音痴のままです。 私の場合 ずっと いい先生にも 恵まれず 自信なんて かけらもない 学生生活 送りましたから・・・ 誰かに認めてもらうって体験 本当に 大切だと思います。
>緘黙症の治療は、結局は試行錯誤してその子にあったやり方を見つけていくしかないと思うのです。
私も みくさんのこの言葉に 同意いたします。 あきらめません! きっと うちにも うちにあったやり方があると思うので・・・
ルディさんへ
はじめまして・・・
私 ネットのお友達で 娘さんが 不登校から 海外に留学されてる方 います。 何年間という不登校に 先日 ピリオドを打たれた男の子のお母さんも 友達です。 文章 読ませていただいて その方達と同じ共通点なるものを 感じます。 不登校は してる子供達を 受け入れることから始まると 聞いたことあります。 親が 変われば 子供も 変わるとも 聞きました。 現在のルディさんも 相当 苦労されたのだと 想像してます。
しかしながら 何を書いても 結局は 当事者じゃないと わからないんだと 思います。 大変 冷たいですが 私としては そんな考え方もあるんだぐらいにしか 理解できないのが 正直な気持ちです。 ごめんなさい・・・・
かいわれさんへ
>親として期待を持つところですが、良い人に巡り会い、その関係を続けていくのはたいへんだと思います。
これまた 私にとって タイムリーな話題でして 参考になります。 ピッタリな人にめぐり合うのは 難しいです 確かに。
いつも かいわれさんのコメントは 要点が簡潔に書かれていて すばらしいです! これからも いろんな所で どしどし コメントしてください (*^_^*)
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ルディ
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題名:
苦労や努力
投稿日時: 2006-11-26 17:08:39
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登録日時: 投稿記事数:
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なんだか、皆さんのわきあいあいとした お話にいつも横槍を入れている気もしていますが またまた割り込んできて、お騒がせ致します 実は皆さんが不登校になると苦労や努力しただろうな~と 思うとしたら 私がこの議題にコメントしようと思った 主旨とずれてしまう気がします 不登校=苦労 不登校の成果を得る=苦労と努力の結果 と考えて大変だったでしょうね?となるのは あまりにも固定観念にとらわれすぎなのでは? そう考えて不登校を恐れるあまり、学校での対応を 強迫的なもののように行うとすればつまらないことだと思います 人生もある程度生きてくると 多少の刺激も欲しくなります つまり言いたいのは 人生の課題を 楽しむことも出来るのではないでしょうか? ということです 全ての与えられた課題を 楽しく切り抜けたいな・・と それぞれの人が それぞれのやり方で 自分の人生を彩っていくのだと思いますが 苦難と人から思われるようなことこそ 自分なりな美学で あざやかなロッククライミングテクニックのように 切り抜けてみたいものです 苦労したのでしょうね?と言われると へそまがりの私としては まだテクニック不足だから困ったでしょう? 景色を楽しむ余裕は無かったでしょう? とでも言われているようにも感じられますので そのようにはおっしゃらないでいただきたいものです  学校のカウンセラーの方に やたら共感してもらったことも 私にとっては 何かとても失礼なこととして 感じられてしまいました 何かうちの子はかわいそうなのでしょうか? と感じました また私が不登校をはじめた娘に対して 一番感じたことは 卑屈になっている人間は醜いということです どんな状況であれ 誇り高くあって欲しいものです 緘黙があるからといって また不登校になっているからといって 人から同情される立場を 安易に受け入れるのは どんなものでしょうか? なんて・・・ またしても引っ掻き回すようなこと書いちゃったルディでした・・。 のひめさん、ごめんなさい!
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のひめ
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題名:
早速 返信 ありがとうございます。
投稿日時: 2006-11-26 20:14:56
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登録日時:2013-10-18 04:45:31 投稿記事数: 123
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ルディさんへ
こんばんは♪ あははは・・・ 思わず 笑ってしまいました。 (ごめんなさい 失礼かな?)
>全ての与えられた課題を >楽しく切り抜けたいな・・と
なるほどね・・・ でも そこまで みなさん 悟ってないと思いますよ。 悟りというか ルディさんの信念(?)かしら~ 私自身 そこまで 強くないです。 ある意味 ルディさんは 強い精神力を お持ちだと思います。
掲示板は いろんな方が いろんな意見を 書いてもいい場だと思います。 引っ掻き回すと気になさらず 思われたことを 書くべきですよ たぶん♪
こんなこと 書いたら お二人に 怒られるかもしれないけど ルディさんと かいわれさん 発想が似てる気がするんです、私。 いわゆる 似たもの同志かな・・・? あっ 関係ないですね よけいなこと書いて すみません (*^_^*)
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