旧掲示板過去ログ


場面緘黙症Journalトップへ


113 件の記事    1  ...  8   9   10   11   12   
題名: こんばんは
投稿日時: 2007-10-27 09:32:50
User avatar

登録日時:
投稿記事数:
みなさん、こんばんは。

SMIRAの情報でも、「ありがとう」と「ごめんなさい」をいいたがらない緘黙児は多いようです。

頑固で完全主義的な傾向が強く、間違えたり、負けることを嫌う傾向が強いため、「ごめんなさい」を言うことに屈辱を感じるのではないか、と想像しています。
彼らにとって、自分の非を認めることは、「負ける」ということに繋がるのではないでしょうか?

うちの息子も2年前(日本語中心だったころ)はなかなか「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えませんでしたが、英語だとそれほど苦にならないようで、今は割と自然に出てくるようになりました。
それでも、何か失敗すると、「マミーのせいだ!」と怒ることも多いですけど...。
自分が悪いのを解っていて、くやしくて私のせいにして泣いたりしてるし、困ったものです。
感情を出すことは悪いことではないかもと思いつつ、この性格をどのように治していったらいいかは、大きな課題ですね。

そういえば、最初無理して「ありがとう」「ごめんなさい」を言わせるようにしていたら、余計頑なになってしまったんですよね。
それで、息子に対して私が「ごめんね」と「ありがとう」を意識して使うようにしたら、だんだん自分で言うのに慣れてきたような気がします。

>緘黙症の人には被害妄想とマイナス思考の癖があると思うのは私だけでしょうか?

なかたさん、これはうちの息子にも大ありです。
被害妄想というか、ものすごく自意識過剰で、人の目を気にします。


題名:
投稿日時: 2007-10-29 09:36:54
User avatar

登録日時:
投稿記事数:
おはようございます。

元緘黙児としては、緘黙児が「ありがとう」と「ごめんなさい」をいいたがらないというのはよくわかります。
プライドの問題もあるのでしょうが、「ありがとう」と「ごめんなさい」は物心ついた時から言うことを強要され、言えないと分かった途端、周囲が不機嫌になるという印象を感じる言葉でもあります。
親であろうとも、最も自分が苦手とする言葉を強要される行為については精神的につらいものがあります。
「こういうときは何て言うの?」と言われた途端からだは徐々にフリーズし、それを見た親が追い討ちをかけるように「いつまでそうしているつもりなの?」とくるわけです。

ところで、ルディさん、元緘黙児は他人との意思疎通がかなり苦手であるにもかかわらず、本人も周囲の人もそのことに気づかないのでどうしたらよいか?ということは私もよく考えます。

仮に話すことができたとしても、程度の差こそあれ日本語が通じる人という感じで必ずしもコミュニケーション可能な人ではないんですよね。
おそらく、うちの子供は話せないから学校でうまく過せているのではないかと私は思うので、話せないなりに対人能力を高めたい、できることなら言葉以外の意志疎通を知った上で、話せるようになったとき「ああ、口で言ったほうが簡単だな」という感覚を感じて欲しいと思うのですが、夫も学校の先生も話せるようになりさえすれば普通の子供になれると思っているのでそのあたりの考えを伝えることが難しいですね。

また、緘黙関係の本も指導者側から見た本はこうすれば話せるようになったとは書いているけれど、声を出すこととコミュニケーションは違うという視点が欠けており、話せるようになった途端周囲との人間関係に悩まなければならない緘黙者はいつまでたっても救われないと思います。

私個人の感覚としては、緘黙者は普通の人のものの考え方が理解できないから人間関係がうまくいかないんじゃないかと思っています。
よく人は個性とか自分らしさと言ういれど、私は子供のときから親に自分の行動を否定されて育ってきたので、素の自分を外で出すのは危険だと思い、社会に出てからは徹底的に周囲の人のもの考え方や行動パターンを頭やからだにたたきこむよう努力しました。
人とかかわって、「こういうときにはこう感じるのか」とか感じのよい人に出合った時「この人と自分はどこが違うのだろう?」と考えるようにしました。
カウンセラーにその話をしたら「あなたは自分で認知療法をしたんですね」と言われました。
その結果、生きやすくなったことは確かですが、自己否定につながるような気もします。
それがよいことなのかどうかはともかく、普通の人が無意識にやっている行為が円滑な人間関係につながるとしたら、そういう感覚が少なくとも私にはないということが分かりました。

なんと言ったらよいのでしょうね。人に与えられる自分には慣れているのに、自分から与えることはない。
例えば心とか?
言葉というのはそれを伝えるのを補助する手段でしかないのに、それが万能であると錯覚してしまうから失敗するのでしょうか?


題名: ゲスト→なかたでした。
投稿日時: 2007-10-29 09:42:21
User avatar

登録日時:
投稿記事数:
全投稿、名前を入れるのをわすれてしまいました。


題名:
投稿日時: 2007-10-29 11:23:56
User avatar

登録日時:
投稿記事数:
なかたさんの書き込みを読んで、とっても腑に落ちました。

私(や多くの人)と息子の感覚の違いを感じていましたが
私の想像力では「『ごめんなさい』を強要されることへの苦痛」、
「最も苦手な言葉であること」など考えつきませんでした。

多くの人のものの考え方や行動パターンを叩き込めばいいのか?
それで済むというものではありませんね。
自己肯定感を持ちつつ 人間関係を円滑にする術を身につけるには
どうしたらいいか・・・。ちょっと考えてみます。

2学期になり、小学1年生の息子はこのところちょっと行き詰まっています。

なんとかしゃべらせようとする先生と
しゃべるもんかと頑なになっている息子のエネルギーのぶつかり合いでしょうか。
息子に必要なのは「北風」ではなく「太陽」です。
「しゃべってもしゃべらなくてもどっちでもいいよ」ぐらいのおおらかさで接してもらえれば・・・
などと考えたりします。


題名: 悩みます
投稿日時: 2007-10-29 19:17:52
User avatar

登録日時:
投稿記事数:
うちの子どもも、いまだにしゃべらせよう、挨拶させよう、コミュニケーションさせようとすると非常に敏感に反発します

私は、呑気なのか今までほとんどそういうことをしてこなかったのですが、たまたま私の知り合いなどが、何人かの子どもの中にうちの子が混じっているとき、みんなに向けて「挨拶をきちんとしなければね」みたいな事を諭してくれたり、「お友達づきあいは人生にとって大切なものだ」などと教えてくださっただけでも、あとできまって「あの人はきらいだ!」「あのときはとても嫌だった!」と訴えますから、せっかく良かれと思って言って下さった方には申し訳ないのですが、今までのやろうとして出来なかった嫌な気持ちが甦るのか、かえって反発心をあおり逆効果になってしまうようですね

またなべの件で恐縮ですが、謝らないことや、人のせいにしたことなどは、私の感覚ではそれほど気にならないのです
他の子にもそういうところはあるように思います
それより困ったなと思ったのは、なべなどという「物」相手にも、なすすべも無く、受動的に被害者として存在していたように思われたことです
状況に支配されるのではなくて、人間なのだから状況を支配しようよ~と思います
その後の行動というのは、私的にはとりあえず何でもいいのです
そーと逃げるなり、へたこいた~とふざけるなり、ずるがしこく素直そうに謝るなり・・・なんというか、行動の主体であってもらいたいというか・・
とにかく幽体離脱状態にならないで、しっかり自分を保ってアクションしよう!ってことを言いたいです


題名: 認知行動療法と能動性
投稿日時: 2007-10-30 06:14:02
User avatar

登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 145
2学期になって、対人恐怖症の薬がほしい、と訴えられてびっくりしてしまいました

やっぱり病院にいかないとだめなのかな・・とさがしたところ、思いがけず認知行動療法の心理士のかたが、治療についてわかりやすく書いてくださっているブログを見つけました

http://mhcocl.exblog.jp/pg/blog.asp?eid=d0087607&iid=4&acv=&dif=&opt=2&srl=4375323&dte=2006%2D12%2D14+12%3A57%3A00%2E000

認知行動療法は、海外のサイトにも、子どもの不安障害に有効であると認めれていると書かれていたように思います
ただ、子供向けにこれをどう役立てればいいか、日本には子供向けにこの療法を行っている専門家はいるのかどうかわかりません
しかも、場面緘黙の子どもが心理士のかたに自分の気持ちをお話しすることはなかなか難しい
出来れば親がこれを知っていて、生活のうえでその考え方を生かしてみるといいのではないかと思うのです

大人向けのものですが、興味のある方は見てみてくださいね

私が特に面白いと思ったのは2006 11/16のブログ「対人恐怖と能動性」です

認知行動療法の最終的な目標は、能動性の獲得であり、能動性が身につくときには、ほとんどの精神的症状は無くなる、という記述には考えさせられました


題名: なべの続きなど
投稿日時: 2007-10-30 09:29:17
User avatar

登録日時:
投稿記事数:
おはようございます。

私の考えではルディさんの娘さんはなべを壊したことにさほどショックを受けていないのではないかと思うのですがどうでしょう。

なぜなら、あのなべはルディさんのなべであって娘さんのものではないのだから。

あくまでも憶測ですが、
娘さんにとって何が問題かというと、おそらく、壊れたなべを目の当たりにしたときのルディさんの行動を予測することができないため、自分の次の行動をどうしたらよいかわからないということではないでしょうか。

もし、ルディさんが「大丈夫?けがしなかった?」と言う人だったら、後片付けをしようかと考えるかもしれません。
なぜなら、なべの破片を片付けるという行為は「けが」という言葉に臨場感を与えるものだからです。

なべのことをくどくど責めたてる人だったら何もせずに言い訳を考えるかもしれません。
なぜなら、わざとやったわけでもないのにくどくど責められたら、不運にもこわれてしまったなべを片付けた行為に対しての評価をまったく受けないことになり、本人にしてみれば「骨折り損のくたびれもうけ」になってしまうからです。

もしかして緘黙者は、たとえ結果が失敗でも悪意をもってしたことでないなら責められるのは不当だと感じてしまう傾向もあるんでしょうかね。

今回のことに関してはなんとなく
落ちやす場所に置いてあった→落ちるべくして落ちたなべ→たまたまそばにいた自分→関係者かもしれないけど当事者じゃない(すくなくとも加害者じゃない)→このことで責められる自分はむしろ被害者だ
みたいな図式が成り立つような気がします。

ただ、このことがショッキングな事件であることは自覚していて、そのことに衝撃を受けた気分を要求されることがわかっているのでそういう顔をそて見せるのです。
(幼い頃から何かあるたびに「人ごとみたいな顔している」と言われているので顔つきだけでもそれらしくしようという心が無意識に働きます)

ちなみに、私だったらさっさと片付けて、なるべく早く謝ります。
そうすることによって敵の攻撃を最大限に防御することができるからです。

本当は「大切ななべを壊して申し訳ない」、この気持ちが最初にくるべきだと思うんですよね。
ところが、そういう気分になかなかなれない。
私はそういう自分を自覚しているからなんとか暮らしていけるけど、うちの子供にこの感覚を自覚させるのは難しいなといつも思います。


題名: 嬉しいです
投稿日時: 2007-10-30 18:06:57
User avatar

登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 145
なかたさん、考えていただき申し訳ないような嬉しいような気持ちです

なるほどそうかもしれないと思いながら読ませていただきました

「申し訳ない」よりも、「責められるのが嫌」なのは、私も家の車を擦ってしまったときなど、すぐにそう思ってしまうので不安症だからとは思えない部分です

私はそのような時は、まず友人のところで傷を隠す巧作を行う・・どうしてもだめなら見つかる前に業者で治してしまって知らんぷりする、それも出来ないときはしおらしく「擦ってしまったの・・ごめんなさい」と言う
というように段階による判断や行動があります

でも、確かに自分のせいではない、関係ないと思っていれば何もしませんね
そこにポールが立っていたのが悪いということなら、責められるのは不当だということですね
しかも傷ついた車を見てショックなのはむしろ私のほうである・・と
でもつまるところ夫の車だから、実を言うとあんまり気にしていない

その関係ないという態度と同時に、自己主張しなくてもショックを受けていると理解してほしいというように立っていることのほうが、責められやすいひとつの「行動」と受け取られてしまいますね

実際私も、なべも気になりますが、割れたのに何もしないでいることのほうが気になるのです
怒るとすれば割ったことよりも、なんの行動もしようとしないことに対して怒ることになるでしょう
その後どうしたかと言いますと、意地悪な言い方をしてしまいました
「変なところに置いていて、すみませんでしたね」と少々皮肉を込めて言ってみました
子どもは無言で行ってしまいました
結局私が悲しい気持ちで片付けたのですが、私こそ被害者意識を持って、いつか見ていろ・・と思ってしまいました 8)
そののち、チャンスは訪れました
加害者なのにまるで被害者のように自分を哀れんで嘆いているクイーンの曲の歌詞を二人でたまたま見たときに、これって君のテーマソング?と言って仕返ししてしまいました・・
親子と言うより、女同士のけんかじみてきました


題名: ある、ある、ある
投稿日時: 2007-10-31 09:38:09
User avatar

登録日時:
投稿記事数:
おはようございます。

ルディさんの車を擦ってしまった時の対応の発想が私と似ているので思わず笑ってしまいました。

私もなにかトラブルが起きた時は秘密裏に原状回復、または隠蔽、それができないときは謝罪という順になっています。

私の夫は失敗を責めるよりは隠したことを悪いと考える人なので、正直に話しさえすればたいていのことはまるく治まります。

ところが、困ったことに私は自分の失敗とか欠点を人に話すのがすごく嫌なんです。
「今日こんなことがあって失敗しちゃった~」とか
「最近太っちゃってやせなきゃ~」
みたいな話をするのはプライドが許さないんですよね。
さらにそのことを人に指摘されるのも嫌です。
「太った?」と言われれば「別に体重は変わらないけど」と言い
「それじゃだめなんじゃない?」と言われれば「こういうやり方もある」と言いたくなるタイプです。
(実際は「何言ってんの?、この人」と思いながら無言ですが・・・)

たぶんうちの緘黙児もこの感覚で生きてるんではないかと思います。
だから、操縦は難しいですね。
どう贔屓目にみても「素直で前向き」じゃないので無駄な苦労を自分でしょいこんでいるように見えます。

そうそう、うちの子供が能動的になることがまれにあります。
自分の利益になるものをたやすく手に入れることが出来る時なんかそうですね。
イベントなんかで「先着何名にプレゼント」みたいな企画のときは、しっかり景品受け取ってます。
「それ、どこから持ってきたの?」
「さっき配ってたよ。もう無いけど・・・」
はあ、そうですか。
そのエネルギーをほかの事につかって欲しいです。


題名: 些細なことの中の能動性
投稿日時: 2007-11-01 08:31:05
User avatar

登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 145
大人から見て、おーよくやっているな、とわかる能動性以外にも、生活の中に能動性というものはたくさんあると思っています

些細なことの中にそれを見つけて大切にし、より大きく膨らませることが出来るよう見守る、本人を主体にしながらそれを援助することが必要だと思っています

大人の価値観をいったん忘れて、子ども自身の小さな能動性を見つけることが出来れば、それを育てることが可能だと考えます

お菓子を食べたい、あのテレビ番組が見たい、ゲームをやりたい、のなかにもたくさんの可能性があると思います

大人の価値観に結び付けようとすると、子どもは受動的になってしまい、「こうでなくてはいけない」に敏感なのですぐに心が反応してしまいます

子どもの心を開放し、自由に決めて、思ったとおりにやっていいのだと思えるように肯定してあげたいものだと思います

それが出来れば、次にはもっと欲張りになって、それを発展させていこうと思えるようになる、それにはどうすればいいのかな?というような道筋を少しだけ援助しながら見守っていく・・というような感じでしょうか

うちの長女が交換留学やスピーチコンテストに出るほど英語が好きになったのも、元はといえばハリーポッターにはまったのがきっかけです

小さな興味から能動性や主体性、積極性が芽生え、それが自然と自己責任を伴った行動や友人関係等の社会性に結びついていくといいなと思います


113 件の記事    1  ...  8   9   10   11   12