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題名: ゆったりと、自分らしくいられるようになった娘について
投稿日時: 2007-07-24 18:56:32
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パソコンが壊れてしまい、ご無沙汰していました

その間に、たくさんの方が発言していらっしゃるのを読ませていただき、大変興味深く感じています

いろいろ考えさせられ、言ってみたいこともあるのですが、とりあえず、子どもの近況報告・・

昨日から3泊4日の合宿に参加しています
さらに山奥での、写生の勉強のためです

参加しても、しなくても、いいものなのですが、是非行きたいとのことでした

親として大変助かると思うのは、3泊4日なのにとっても安い!ということです
やはり、公の教育を受ける機会を持てるのと持てないのとでは、負担額が違いますから、そういう意味では「学校」は「使える」と、つくづく感じました

ところで友人関係のほうは大丈夫なのかしら?と、やはり気になります
けれども、うるさがられるのでうかつに聞くことは出来ないので、様子を見ていると・・

私は、こういうことはとても重要なことだと思うのですが、
まず、私服をそろえる時に、自分の納得できるセンスのものを用意したということが、今までと違っていたことでした
今までは、「もうちょっと何とかならないの?」という感じの、自己主張のない、無難すぎる服装だったのですね
目立たないように・・なのかもしれませんが、それではかえって目立つ・・

それが、少しインパクトのある、自分らしさと流行をかねそなえたものを選んでそろえていました
自分というものを強く持っていないと、自分らしい服装・・を出来ないのではないかと思うのです
それが必要なのだと親に言うことや、どんなものを、どこで買い、どう組み合わせて着るのかということは、特に思春期の女の子の場合、かなり大変なことだと思うのです
今回はそこが成長していたと感じました

ところで、こんなことも言っていました
「あまり話したいとまで思う人は少ないから、本を持っていこう・・そうすれば必要以上に人とかかわらなくてもすむ」

それもいいのではないか?と思いました
魅力がある人とは、話したいが、そうではないのなら、一緒にいるのも困ってしまう・・大人だってそうではないでしょうか?

まあ、このようにさりげない服装の中にも自分らしさを打ち出し、また、人の中で自分の平常心を保つ工夫をしようとしている娘を、たいへん頼もしく感じました

あらためて、confidenceとは何なのか?「自信」とは、何なのだろうと考えてみると、特別ぺらぺらと話したりすること、というわけではなく、人の中に存在していても、ゆったりと自分らしくいることが出来る、自分らしい存在の仕方が出来るということなのかもしれない・・そんな風に感じました


題名: やっぱり天才
投稿日時: 2007-07-28 13:58:39
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
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合宿はどうだったのかしら?
ちょっと心配でしたが、特に連絡もありませんでした

そして昨日は迎えに行ってきました
私はちょっとかっこ付けなところがありまして
どうだったの?・・っとすぐ聞くのは嫌なのですね
それで黙っていましたら
娘は「あ~疲れた」と言いつつも、大変晴れやかで
なんとなく、またいっそう頼もしい感じになっているのです

そして、急に
「ねえこの詩どう思う?読むから聞いてね」とのこと

言葉の順序は忘れてしまったのですが、その内容は

緑のブタが一生懸命坂道を登っています
オオカミが来るよ!と叫びながら
蚊がやってきて言います
山の上には、オオカミがいるよ、食べられてしまうから登らないほうがいい
けれどもブタは登り続けます
オオカミが来るよ!
ブタはやっとのことで頂上にたどり着きました
すると、赤いオオカミがやってきて、緑のブタを飲み込んでしまいました

なるほど、なるほど、すごく面白いね
長新太さんの絵本みたいですごくいいね、と言うと
実は自分が作者なのでそうです

合宿で山に行った娘ですが、何か、本人の心の状況と、現実の出来事や場所がシンクロしているのかもな~と、大変面白く感じました

私流にちょっとユング風に(?)解釈してみると・・

与えられた環境の中で、与えられた餌を食み従順に(家畜的に)成長してきたブタという自分がいた
景色の見えない坂道をただ黙々と登ってきた
人の血を吸って生きる、寄生を勧める蚊がやってきて、山の上になど行かないほうがいい、と言う
けれども、ブタは、ブタである自覚から、食べられる運命を予感し、山の上へ行きたい衝動を持って登ります
しかし、山の頂上で出会ったのは、赤いオオカミだった
緑のブタは、赤いオオカミに飲み込まれてしまう
充分成長し太ったブタは、赤いオオカミに食べられることで生きるのです
オオカミとして、山の上から世界を見通し、攻撃する能力も持つのです
これからは、強い自我と、意志の力で、生き抜いていく自由を得たのでしょう

ブタもオオカミも蚊も、君なんだと思うよ
やっぱ天才だね~と言ってみると
え~!そんなこと全然気がつかなかった
そうなのかな、うちってすごいのかも・・?

・・・ :roll: 子どもってほんとうにすごいな~と、やたら感心する私ですがみなさんは、どう思われますか?


題名: アナーキーとYUIさんと民主党とわが娘
投稿日時: 2007-07-29 22:09:02
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
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今日は珍しく家族で車で出かけましたが、夫はアナーキー(古い?)をかけていて、その一見反逆的な、しかし道理を得ている歌詞に、そうだそうだとみんなでうなずきながら盛り上がりました

家に帰ってから、娘が、ねえ、とってもいいから聞いてみて・・と言うので、
YUIさんの曲を聞かされました
じゃあ、1曲だけ、一番気に入っているのを聞かせて、と注文したところ
その歌詞は

大人からのアドバイス
でも私は思った
あんたみたいにだけはなりたくないと

みたいな・・
(言葉は違っていますが内容がこう)

その後夫が、おいすごいことになってるぞ!と言うので
テレビを見ると
民主党が圧勝しそうな勢い

なるほど、なるほど
美しい日本とか言って挨拶を強制するからだ
民主党の方に、弥生桜さんが訴えてくださったことは実現しやすくなるかな
そうだといいと思います
弥生桜さん、本当に有難うございます

それにしても娘はすっかり良くなったように思います
と同時にすごくカッコいい大人になっていくのだ
と、急に実感しました

実はうちの娘も、腰が固いと思っていたのですよ、朋花さん
描く絵の人物までそうなのですから不思議でした

ところがこのところ、それをあまり感じなくなりました
表情も体も柔らかくなりました
オオカミの余裕か

そろそろこのトピックに書くこともなくなってしまったかもしれない・・と思っています

最近とても目が悪くなってしまったので、そろそろ引退しようかな
水の中で目を閉じていた「ぽよ~ん」も光の中で双葉を出しました

そろそろシュタイナー研究にもどりますが、何か質問があればどうぞ


題名: 作戦実行中
投稿日時: 2007-09-26 21:29:35
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
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近況報告ですが、結構大変なことがありました
過去形で言い切れるかどうか・・ただいま本人は作戦実行中です

夏休み明けから、なんとなくため息が多くなり、しまいには教室にいるのが苦痛、頭が痛くなるときもあると言い出しました
もういやだ、しかしなんとかもっと自然に会話できるようになりたいから、楽になる薬があるなら飲みたい、などとまで言いはじめたのです

お友達はいるし、お話も出来たのに、なぜ、教室がそんなに苦痛なのかしら?

本人によると、
・話している人たちの話題などに違和感を感じることが多く、そこにいるのが苦しくなってくる
・自分の話し方が家のように自然でないことや声が気になる

希望としては
・家でのように他の人と自然な会話や振る舞いが出来るようになりたい

今までも社会不安や対人恐怖について調べたことはあったのですが、あまりにも色々ありすぎて自分の中で漠然としていますし
遺伝的な気質、幼少時からの問題としての、子供向けのアプローチが少ないことが、もう一歩考えを進めようと思えなかった理由でした

でもそんなこと言ってもいられません
情報を集め、子どもも一生懸命どうしたらいいか考え、その結果をふまえて、只今実行中です

まだそんなにたっていませんが、変化はとても早く、周りの人に躊躇せず、自分の話したいことを何処だろうが話す、というふうになりつうあるのでとても驚いています

いったい何がどうなったのか、本人とまたフィードバック会議するときに、よく聞いてみたいと思います


題名:
投稿日時: 2007-09-27 09:13:45
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おはようございます。

ルディさんのお子さんも頑張っているのですね。
何かで読んだ事があるのですが、長期の休み明けというのは不登校になりやすい時期だそうです。

ところで、私も学生時代肩こりと偏頭痛に悩まされました。病院へ行ったところ、ストレスと言われました。
学生時代は、集団生活になじめない、というか学校生活というのは自分が型にはめられるような気がして嫌でした。
友達がいないのは寂しいけど、一緒にいるのも煩わしい。
先生や友達が望むこうあるべき姿を演じるのに疲れる・・・などなど。

今思うと人との付き合い方を知らないために、無駄に苦労したり、嫌な思いもしたのかもしれません。

緘黙症の後遺症というのは何なんでしょうね。
私が場面緘黙だったのは小学生時の2年間でしたが、その前とその後で基本的な思想は変わっていないと思います。
思考錯誤しながら人付き合いをしていって、人というものがある程度分かった時、気分的に楽になったような気がします。
ただ、やっぱり人付き合いは煩わしいと思うし、たぶんこれは一生治らないと思っています。

過去の自分に対する反省点は、自分の心の痛みに敏感で嫌なことがあるたびに相手を無神経だと思い、そのことに気づかない周囲に腹を立てるばかりで、嫌なことがあってもそれを表には見せず頑張っている人を見ようとしなかったこと。
自分に対して良くしてくれる人に対して、それを当然のことと受け入れ、感謝する心を持たなかったことでしょうか。


題名: ありがとうございます
投稿日時: 2007-09-27 14:04:40
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 145
なかたさんのお話をうかがえて、とても有難く思っています

同じ親の立場で、たいへん参考になるご意見を下さり、嬉しいです

お話しが出来てよかった、と親はそれで治ったと思いがちですが、その後も人の中で居心地悪く思うことの苦しさが続くことも多いようですね

私は、きっとはじめからある社会不安、対人恐怖が残ったのだろうなと、思っていたのですが、今は少し考えが変わりました

お姉ちゃんのお友達が遊びに来て、とっても楽しそうに話しているので、いったい今時の高校生はどんな風にお話しするのかしら?と、ないしょで聞いてみていたら、なんだか悲しくなってしまうことには、ほんっとーにバカバカしいことしか言っていないのですよね

文なんかで話していなくて、会話の構成要素は
・ばかばかしい単語
・爆笑
その繰り返し
内容などほとんどどうでも良く、ほとんど楽しさだけを目的としています

(彼女たちの名誉のために言いますと、二人は決して不真面目な高校生ではなく、部活を一生懸命やり、将来の目標も持っている、しっかりした女の子たちです。ただ、楽しむときには思いっきりバカになることも出来る柔軟性や遊び心を持っているのです)

次女は、自然な会話をしようと「悩んだり努力する」ことで、そうすることが出来るようになるのだろうか?
何か、違う方向性が必要なのではないのかな?と思いました

もしかしたら、教室でバカバカしくふざけたり、くだらない会話をする人たちに、娘は不愉快な思いをしているのかもしれませんが、なかたさんが教えてくださっているように、、嫌なことがあってもそれを表には見せず頑張っている人なのかもしれないけれど、次女にはそういう見方は出来るのだろうか?と思います
自分の嫌な気分や、気になることでいっぱいいっぱいで、その場の表面的なことしか見えていないのかもしれないと思います
でもこれは、仕方がないですよね
今まで、友人とバカな会話を思いっきり楽しめるほどリラックスできることが無かったのですし、変なこと言ったりしてもかえって面白いんだなんて、そうしてみようなんて思うほど、色々なことに安心できなかった過去があるのですから
そのしょってしまった過去という意味合いにおいて言えば、後遺症という言い方も的を得ている面はあるのかなと思います


題名:
投稿日時: 2007-09-28 08:45:42
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おはようございます。

これは、ルディさんのお子様が「お友達に違和感を感じる」ということと関係あるかどうか分かりませんが、私は一旦話せる間柄になっても、その人と話をしない環境が続くと話せなくなる・・・という傾向があります。

例えば、子供の頃、1年にせいぜい1回程度しか会わない親戚の家に滞在することがあったのですが、到着日はほとんど話せない状態です。
ところが、何日が滞在するうちに、必要な日常会話程度は普通に話せるようになっています。
ところが、次の年、またその親戚の家に行くと、やっぱり話せないんですね。
いつも、それの繰り返しです。

また、子供の頃よく一緒に遊んだいとこと、親戚の集まりで会った時、私の母は「仲良くしてた○○ちゃんと話でもしてきたら?」と言うのですが、私としては、「この人と今更何を話したらいいのだろう?」というのが本音で非常に困惑してしまうのです。

ただ、一応人前で声を出せるようになると、だんまりを決めるわけにもいかないので、何とか会話を試みようとするのですが、頭の中は真っ白です。
よく、雑誌の悩み相談などで「何でもいいから話してみることが大切」と言いますが、実際は「何か言うべきだけど、言うべき言葉がみつからない」ということ以外考えられない状況です。

そこで、自分が話せないのは話題となる知識が少ないからじゃないかとか、語彙が足りないんじゃないかと考えた時期もありましたが、最近はちょっと違う考えを持つようになりました。

会話がうまくなくても、場の空気にうまくなじむことが出来れば、周囲の人は自分のことを同朋と認めてくれるらしいことに気づいたのです。

なんだか自分のことばっかりで、申し訳ないです。
長文になりそうなので、このくらいにしておきます。


題名: 是非何でも書き込んでくださいね
投稿日時: 2007-09-28 22:34:22
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
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なかたさん考えてくださり有難うございます

自分のことばかりなどとおっしゃらず、なんでも気兼ねなく書いてくださって大丈夫ですからね
ブレーンストーミングのように自由に考えを述べ合うなかから、それぞれが自分に役立つものを見つけ出すというのもいいのではないかと思います

なかたさんのお話で、そういえば・・と思ったことがありました

夏休みにも学校に部活で行っていたのですが、「お昼ご飯は一人で違う階で食べている、そのほうがいいから」と言っていたような
休み中、どっちかと言うと人から離れるほうを選んでしまっていて間があいたので、また集団に入るときに、うまくいかなくなってしまったのかもしれません
しばらくの間気疲れを溜め込んでしまって、コントロール不能な状態になっていたようでしたが、今はだんだんうまくいきはじめているようです
私に相談しながら色々考えて、どうするか自分で決めて実行しているらしいのですが、嬉しいことにはかえって前よりも積極性が増し、軽やかになっているような気がします
最初本人は、もっと学校に対人恐怖への理解をお願いしてみてほしいとか、友人たちへの批評、薬を飲む・・という方向性だったのですが、それぞれについて具体的に考えてみるうち、気が落ち着いてきたのか、今までの自分自身をリセットするような方向性も持ってみようと思えたようです

先日は、家族以外の人が同席している場面で自分の好きなアニメの話をしはじめて驚かされました
いままではそういう時黙ってしまっていましたので
どうしてそう出来たの?と聞きたいのですが、あまりそのことに本人が自意識を持ってしまうのもどうかと考えるとなかなか聞けません

若いときの苦労は買ってでもしろと言いますが、それは苦労を何かしら前向きなパワーに変換出来たときには、ひとまわり大きな人間になれるということだと思います
そうできるかどうかというのは、やはり最終的には本人がどれだけ自分のこととしてその問題に冷静に取り組む気構えを持てるかにかかってくるかなと感じます
学校や周囲の理解が得られても、最後はどうしても本人がしょわなくてはならない部分は残ってくるような気がします
なんとか、周りの支えとともに、本人も少しずつ能動的な考え方を身に着け、世界を広げてもらいたいと思います


題名: 元緘黙故に共感できる?
投稿日時: 2007-10-02 10:16:29
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そういえば、以前ルディさんの娘さんの「話題があわない人を避けてひとりで行動する」「共同作業が苦手」とか「人に優劣をつけたがる」という点について理解しがたいということを読みましたが、私からみると全く違和感のない感覚(というか学生時代の私にそっくり)なので、やはり普通の人と緘黙症の人では行動パターンや考え方が違うのかな?と思いつつ当時の感覚を書いてみようと思います。

話題のあわない人を避けてひとりで行動する。
誰かと行動にいるとき自分に好意を抱いている人と一緒ならいいのですが、自分ひとりに対して話のあわなそうなグループの場合→仲間はずれにされているような気がする(たぶん被害妄想です)。
自分ひとりに対して相手ひとりの場合→2人でいるときは楽しい会話を継続しなければならないという脅迫観念に駆られます。そして、失敗した場合その原因のすべてが自分にあるように感じ、精神的ショックを受けます。

共同作業が苦手
その作業を行うことになんら障害がないことが分かっていても、その日のことを考えると憂鬱になります。
私にとって子供の入学式、卒業式、友人の結婚式すべて気が重くなるイベントです。
ところが、それらの行事を欠席しようという気は毛頭なく、むしろ、積極的に参加したいという気持ちはもっています。
憂鬱になる理由としては、非日常的なことを嫌う。人込み(特に知り合いが多数いる)がすきでない、共同作業においては作業の分担やペースを他人にあわせる(或いは任せる)ことが多く、人にやらされているという感覚が強く自分自身の活動として楽しむことが出来ない。

人に優劣をつけたがる
少なくとも学生時代の私は付き合う人と付き合わない人の線引きがはっきりしていて、クラスメートでも「付き合わない人」と分類した人についてはなんらかの事情で彼らが近づいて来ない限り交流しようという気持ちを抱くことはありませんでした。
恐ろしいことに、人数の比率では「付き合わない人」のほうが圧倒的に多かった気がします。
付き合わない理由としては、いつも楽しそうな彼らは自分に興味がないだろう・・・という思い込みと、もしかしたら嫌われているかも?という被害妄想により、とりあえず少数ながら存在する友人に満足しようということでそれ以上望もうとしなかったことにあります。

ルディさんの娘さんはまた違った考えなのかも知れませんが、今こうしてみると必要以上に傷つくことをおそれ、それが結果的に社会性が育つのを阻害しているんですよね。


題名: ありがとうございます
投稿日時: 2007-10-03 06:01:41
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 145
なかたさん、親身になって考えてくださり本当に有難うございます

なかたさんのお話で、これまでせっかく出来たよいお友達関係が何度と無く途中からうまくいかなくなってしまった、悲しく残念な経験を思い出しました
お友達が出来たときには子どもは嬉しくて嬉しくて、私も喜んだものでしたが、それがなかたさんが代弁してくださっているような子どもの感じ方が一つの要因となって、うまくいかなくなり、最終的には子どもはお友達と会うのを避けたり恐れたり、時にはうらんでみたりするようになってしまっていたものです

あのころからもっと子どもをわかってあげていたら、お友達と悲しい形で疎遠になってしまうこともなかったのかもしれないと思うととても申し訳なく残念な気持ちです
本来の、明るくお茶目な自分のままで、なんのわだかまりも無くお付き合いが出来るなら、子どもにとってもお友達にとってもどんなに良い時間となったことかわかりませんし、子どももそうした経験から、たくさんの自信を得ることができたはずだと悔やまれます

そうした経験が積み重なってしまって、ついつい人を避けたりして自分を守るばかりか、時には少々攻撃的な考えを持ってしまうようにも思われますが、それは本人のせいとは言えませんね
また、そうした考え方が「いけない」と考えてしまうのもどうかと思います
よく認知行動療法の紹介などで言われている「歪んだ認知を修正」というような考えは取りたくない、と思ってしまいます
自分を守る考えや、人への批評眼を持つことも肯定的に捉えたいですし、プラスアルファーとして、違った考えも必要に応じて取ることができる、というようにしていきたいものだと思います

認知療法も少し詳しく見てみると、積極的な対話を重ね問題に対するいろいろな角度からの考えを模索するもののようですね
無自覚に取ってしまう感じ方や考え方から人生の苦しさが発生する場合、もう少し落ち着いて、いろいろに考えることも出来る、自分が望むありかたに適した考えが他にもあるかもしれないと考えられるといいですよね
大人でも、なかなかそこまで自分を深く見つめている人は少ないと思いますが、子どもを見ていると、思いのほか柔らかい心でまっすぐに自分を見つめることが出来るのは本当に偉いな~と、久しぶりの親ばかぶりを発揮してしまいます

子どもが今までの経験を否定するのではなく全て生かしきって、安定した自由な気持ちでお友達との出会いを大切にしていけるように手助けしたいと思います


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