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題名:
投稿日時: 2007-10-04 09:20:47
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おはようございます。

ルディさんの娘さんがその年ごろでいろいろ頑張ってるのはすごいですよね。
私がそれくらいの年のころはかなり考え方がすさんでいたように思います。

緘黙の治療に関しては、幼児期、低学年でない場合、いかにして言葉を引き出すかより、とりあえず表情を動かす練習をしたほうが楽じゃないかと私は思います。
うちの子供は夏休みに表情を変える練習をしましたが(それは日常生活に組み入れられているので本人はそれとは全く気づかずやっています)休み明けの子供の表情が明るいと先生に言われました。
目を合わせる練習もしましたが(これも本人には秘密です)、私とは完全に目を合わせられるようになりました。
それから、1学期孤立状態だったので世話人の子をつけたところ、その子と一緒に歯を見せて笑っているのも目撃しました。
うちの子は緘黙にもかかわらず表情が豊かだと小学校の先生には言われたのですが、中学校へ行ってから、友達がいないために表情が固まってしまったんですよね。
もしかしたら、そのまま放置すると最終的には自分の意思とは裏腹に笑えなくなってしまうようなこともあるのかな?と思ったりもします。
もちろん、相変わらず学校では話しません。

私は高校生ぐらいのころ笑えなかったです。
学校卒業後、意識して顔の筋肉を動かすようにしたら治りました。
ただ、緘黙症の人にそう言っても自分の意思で動かせないんだからどうにも出来ない・・・みたいに言われることが多いです。
ちなみに、自然な笑顔を作れるようになると人に話しかけられる確立が上がるような気がします。
また、失敗しても悪意にとられることが少なくなるようにも思います。

緘黙症の人が孤立する原因には、上手く話せないというのもあるのでしょうが、それ以前に印象が悪い→付き合う気にならない→なんかムカツク。
会話以前に意思表示がはっきりしないのでイライラする・・・。
みたいなところもあるのではないかと思います。
ただ、そういうものを自覚して行動するのは難しい年頃でもあったりするんですよね。


題名: なかたさんへ
投稿日時: 2007-10-05 09:26:30
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本人に心理的負担を感じさせずに「楽に」取り組めることを、さりげなく「生活の中で日常的に」と配慮されているのですね

自意識を持ちすぎてしまうと力が入って、かえって難しいかもしれませんから、そういうことは大事ですよね
表情が固まってしまうのは理由があったからで、その悲しさを考えるとそれを指摘するのは酷な気がしてしまいますから、本当に自然な形で表情や体をほぐしていければいいですよね
また急に大きな変化ということだと本人が抵抗を感じるという意味でも、小さなことから変化させていくということはとてもいい方法ですね

なかたさんのおっしゃるように、人と人との間には、言葉以外にたくさんの情報がやり取りされていますね
立っている角度とか顔の向き、目の動きやリアクションの速さ等々

いつかネットで見つけたのですが、イチローさんが女性との人間関係をよくするためにどうしているかというのを興味を持って読んだことがあります
彼は女性との人間関係を良くするために最も大切なことは何かということを、自分の中で明確にしているところがすごいと思ったのですが、それは「相手の話を聞く態度を示す」ことであると考えているそうです
次に彼は、そのためにはどんな具体的行動が必要かと考え実行しているのだそうで

・立っているとき・・相手の近くで顔を相手に向け目を見る〈自分の腕を組む、もあったかな〉
・座っているとき・・相手のほうに身を乗り出す(このポーズの時には、必ずしも目を向けなくても良い)

などですが本当に細かく具体的です
実際そうしたポーズを取ってみると、相手は「自分の話を親身になって聞いている」とはっきり実感できるのだそうです
面白いのは、なかたさんのおっしゃるように、「何を話すか?」ということ以外のことが意外にとても重要だということを、彼はわかっているという点です
うちでもやってみましたが、本当に面白いほど体の形で誠意を実感できましたから、そんな細かいことにまで行動哲学を行きわたらせている彼ってやっぱすごいよね~と、子どもと一緒に感動したものです


題名: 悲しい経験
投稿日時: 2007-10-09 08:55:04
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
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過去に自分に嫌なことをした人を許せないという気持ちを持つことは無い?
そういう人をお母さんは許している?
たとえ前より楽しい日々を送れるようになったとしても、何かの拍子にふと脳裏に浮かんでしまう、嫌な思い出ってない?

そういう嫌な思い出に悩まされることがある

そんなふうに話してくれるなんて有難いことだと思いました
またそんなふうに言葉に出来たこともすごいことだと思います

子どもが他の人と違う行動を取っていることを責めた人は、例えば身内なら、そのことがどうしていいかわからず不安で、それを何とかしなければと焦って、見当違いなことをしてしまったのだと思う・・それを許す必要はないかもしれない、でもなぜそういうことがあったのかということを頭の中で整理してみるのはどうだろう?というようなことを言ったりしながら話し合ううち、
子どもは、不安を怒りのように人を責めることで発散する人は、自分のことだけでなく、何に対してもそのように振舞うことで逆に自分を苦しくしていくのだ
何とかして、もっと色々なことに安心していいのだ、焦らなくてもいいのだと感じられるようにしてあげたい
私にはその気持ちはとてもよくわかるのだ
あのままではかわいそうだ
・・とのこと

成長したな、と感じました
不安になりやすい身内のなかでの自分・・自分だけでなくみんな多かれ少なかれ不安を抱えていて、それを悲しみで表現する人もいれば、怒りや人を責めることで表す人もいる・・人の不安についてまでも思いをめぐらせることが出来るようになった子どもは、本当にえらいと思います

嫌な経験をどう気持ちの上で整理していけばいいのか、ということはまだ解決されずにPTSDのように心の重荷になっているのかもしれません
もしかしたら、まだ言葉や意識にのぼらないものほど、力をもってしまうのだろうと思います
そういうことに対しては、例えばうちの子の場合は絵をかくことである程度象徴化して外に出すことが出来てきたと思いますが、まだすべてではないのでしょう
親身になって話を聞くだけでも、心を軽くしてあげることは出来ると思いますが、たとえばフォーカシングのような方法を知っておくのもいいかもしれないなと思いました
少し勉強してみたいと思っています

それにしても、子どもの成長には本当に感動させられます
こんなふうに人生を深く生きられることは、もしかしたら幸福といってもいいのではないかと思います
自分の苦しさを見つめることで人のつらさを理解できるようになり、若いのに偉すぎます


題名: 主体性、自律性、能動性を持つにはどうすればいいか?
投稿日時: 2007-10-22 08:12:40
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 145
はじめからそうだったのか、あとから身についてしまったのか、自分のことでもあまり自分のことではないかのように感じてしまう傾向、あなたまかせな感覚は前からとても気になっていたことでした

たとえば、家庭で何かするときにさえ常に許可を求めるようなところは、よい子という印象もあるかもしれませんが、あまり度が過ぎると、自分の欲求をストレートに表現し、行動するにあたって多少のリスクを自分の責任として負うことの出来るようにもなってもらいたい、と考えます
なんだかうまく表現できませんが・・

ですが、そもそも遺伝的な感受性の強さ、防衛的な反応をとりやすい性質というものがあったのだから、「存在する」ことそのものまでが脅威であると感じてしまうことは、本人の責任ではないわけです

子供が生まれつき持っている性質の長所と短所を、成長の過程で、本人が人生を出来るだけ幸福に送れるように、良い所を伸ばし、短所を見つめ調整していく、それは教育の役割ではないかと思います
親にはその責任があります

というわけで、決して本人を責める目的ではなく、親の責任として考えてみたいことという意味で、本人が今よりも「主体性、自律性、能動性」を持ったほうがいいのではないかしら?と、感じることがよくあります

どうすれば自然にそれが身につくのか、行動療法もそういう視点を持って取り組んでみるといいのかもしれません
療法そのものに、そうした視点がある気もします


題名: 親も子供も受動的?
投稿日時: 2007-10-23 09:37:12
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おはようございます。

ルディさんとお子さんは普段感じるいろいろなことを素直に話し合える状態にあるようで羨ましい限りです。お互いの信頼関係が確立しているからこそできることなのでしょうね。

うちの子は学校ではそれなりに上手くやっているようではありますが、相変わらず一言もしゃべらず、学校のことをきいてもろくに返事もせず、何を考えているのか理解不能という感じです。
ただ、私自身、自分のことをあれこれ話すのが好きではなく、学校の出来事を両親に話したことなど一度もなかったような気もするので、そのようなものを子供ばかりにに求めるのも身勝手なのかなと思うこともあります。
うちの子供が親切にしてくれる同級生たちがどれだけ「気を遣っているか」考えることのできる頭を持っていて欲しいと願うばかりです。

それはともかく、うちにも何かするたびに許可を求める子供がいます。その子は緘黙ではないので親の育て方に問題があったかなと思っています。
たぶん子供が小さい頃、好奇心でしたことに対して「勝手にそんなことするな」というような発言をすることが多かったからではないかと思っています。「○○食べていい?」「風呂にはいっていい?」いちいち聞きます。いつだったか「○○買っていい?」と聞かれたことがあって「いいよ」と答えたところ、すでに購入済みということもあったので、許可を求めるということはその子にとっては単なる形式なのかもしれません。

ちなみに私もかなり受動的です。
「これは自分で決めなければならない」という思い入れのあるもの以外かなり人任せです。
それにはたぶん、何か新しいことをするとき何らかの人とのコミュニケーションを必要とするならば、それが煩わしいからやめてしまおうと思う気持ちがあることと、自分の人生で自力で何かをした喜びを感じることが少なかったからではないかと思っています。

例えば、私が何かをしたいと思ったとき両親は私の前で失敗する要因を数え上げ「そんなことできるのか?」と言います。決して「こうやったら良いのでは?」とは言いません。そして、上手くいかないと「そんなやり方で上手くいくわけないじゃないか、そのような失敗をするなど思慮が足りない」というのです。結果、私は失敗したけどひとつの経験として勉強になった、というよりは、もうこんなことはやめようと思うようになります。

それから、夫はなんでもし切ってやるのが好きで、出かけたときなど見学コースの順番等を頭の中に叩き込んであります。
例えば途中で海によって子供が砂浜で夢中に遊び始めたとします。私だったら、「そこでもっと遊びたかった」と思いながら帰路につくよりはそこでじっくり遊んだほうが良いと思います。でも、夫はそうすると次の予定が狂うから、「時間だから次に行く」といいます。少なくとも夫にとってはそのことに関して検討の余地はないのです。だから、一緒に出かけたとしても、私から「何をしたい」と言う事はありません。
ところが、夫は何かの折に言うのです。何をするにも「計画を練って実行するのは自分の役目で、お前は何もしない」と。

さらに、私は両親の前ではわざと何もしません。
両親は私をおとなしく愚鈍なイメージで見ているのではないかと思うので、そのイメージを壊さないような振る舞いを無意識に、あるいは意識的にします。
一緒に食事に行っても注文を頼むのは親です。実家にお客が来ても主に話すのは両親で私はほとんど無言です。その気になりさえすれば、私もまあまあ人とは話せるとは思うのですが、他人と快活に話している自分を見られるのは嫌だと思います。

そういえば、私は相手によって態度が違うかもしれません。
相手が自分に期待しているイメージにあわせて微妙にキャラを変えているような気がします。

だから、うちの子も学校にいるときは家とは違う姿を見せているのかもしれませんが、親がその実態を知るのは難しいかもしれません。

「いざとなったら自分でできる」のなら、人に頼るのも悪くない。
あるいは「本当はできる自分」をみせる機会がない。
う~ん、どちらなのでしょう。
うちの子の場合、人に頼っているだけに見えるところが不安です。


題名:
投稿日時: 2007-10-23 10:10:56
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みなさん、こんにちは。
以前に教育センターの臨床心理士の先生から
「緘黙の子はなんでも確認したがる傾向にある」と聞きました。

息子もなんでも許可を得ようとします。
息子の分、と出した食事やおやつも「これ食べていい?」
自分のおもちゃも「これで遊んでいい?」

いちいち聞かなくてもいいって思ってしまいますが
先生によると「確認したいだけなんでしょう。学校でも許可を求めたいけど
聞くことができなくてそれもストレスになるんでしょうね」と。

学校でやることも 次にやることがわかっていても
促されないとできない、とか、周りの子の行動を観察して
同じようにやる、などとういうことが多いです。

私自身の子どもの頃を振り返っても 息子と重なることはあります。

あれをしたい、これをしたい、とあまり自己主張した記憶がありません。
親に常に指示され「なにをしたい?どうしたらいいと思う?」と
考えるチャンスを与えられなかったように思います。

自分がそのように育ってこなかったので
どのように「能動性」を育てたらいいのでしょうね。

息子を見ていると、家族の中にいれば主張が強いとも言えますが
(その反面 なんでも確認します)
学校では主に指示待ち、でもどうしてもやりたくない時は「やりたくない!」と
なんとも両極端です。


題名: 考え中
投稿日時: 2007-10-26 08:34:31
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 145
出る杭は打たれるなどといいますが、何かをすれば必ずそれを肯定的にとらえてくれる人もいれば、否定的にとらえる人も出てくる

100パーセント肯定されるような言葉や行為など無いと言ってもいいかも知れません

かといって、何もしないでいてもそれはそれで一つの選択された行為とみなされ、何もしないことへの批評をされるわけですから、人の中で存在するということは、そういったことと無縁ではいられないですね

言葉にせよ行動にせよ存在そのものにせよ、ひとたび外に出せば、人から見ることのできるものになり、それをどう捉え、評価するか、を周りにゆだねることになるというのは、それをひとたび恐いことだと思ったとすると、相当な苦労になってしまうと想像できます

周りが好意的かどうか確認してからでないとその行為がしづらいのは、はじめに評価を決定しておけば、行為を人にさらして批評の対象になるリスクから逃れ、どう思われるだろう?という不安を抱えなくてすむことになるということからきているのかなと思います
確かに、それが今では形式というか癖になっているのかもしれません
それが言葉の癖というだけでなく、こころの癖でもあるかもしれないと思います

実は先日、子供が台所で陶器のなべを落として割ってしまいました
すごい音がしたけれど?と、少したってから行ってみると、子供は散乱したなべと入っていたごはんを前に立ちつくしています
私はすぐに走っていったわけではないので、子供はしばらくのあいだ固まっていたことになります
少しの間びっくりしているというのなら解らないでもないですが、固まっているのが少し長すぎる・・と私は思いました
はじめは本当に固まってしまったのだとしても、時間の経過とともにショックを受けている人のポーズといった感じになり始めている感じです
「わ~大丈夫?」
「(無言)・・」
「(イライラする・・)どうして落としたと言うとか、割ってごめんとか、片付けるとかではなくて、じーと立ってるの?」
(怒るというよりも、疑問を晴らしたい・・)と言うと今度は、
「なべをそこに置いたのが悪いのだ」
とのこと・・
確かにちょっと落ちやすいところではありました
「そうか、ごめんごめん・・って、私が謝るべき状況なわけ??」
何でしょう?もしかしたら、悪かったと思いすぎてどういしていいかわからないのかしら?
不安になりやすいのだからしょうがないのか?

なぜ家なのにそこまで固まったり、行為に対する責任を引き受けることを恐れなくてはならないのかしら?
こんなに優しいお母さんなのに、まるで私は加害者にされている気がしてしまいました


題名:
投稿日時: 2007-10-26 10:42:04
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みなさん、こんにちは。

緘黙症の人には被害妄想とマイナス思考の癖があると思うのは私だけでしょうか?

私には言い訳をする癖がありましたね。
自分でも愚痴っぽいと思ったので、言い訳したくなったら言う前に自分に落ち度があるならばどの点だろう?と考えるようにしたらかなり直りました。

被害妄想とマイナス思考のせいかどうか分からないけれど、例えば友人なんかは親しいからこそ辛らつにものを言うこともあるのに、それに対して本気で腹を立てるから人間関係も上手くいかないのだ、と今になって思うこともあります。
自分の失敗を笑いに変えることができたら周囲とも仲良くやっていけるのに「かわいそうな自分に同情しない周囲に腹を立てる」とか・・・。

うちの子にもそういう傾向はあるかも?と思い、「だめだ」、とか「どうせ」という言葉は使わないように気をつけています。
失敗したら「次は同じ失敗をしなくてすむのでよかった」「失敗を最小限に食い止めるにはどうしたらよいか」という方向で考えさせるようにしています。

ちなみにうちの子はお茶をこぼしても黙って見ているタイプです。
「そんなところに置いたのが悪い」というような気がします。
そこで私は「原因はいいから、早く拭いてよ」と布巾を渡します。
「よそみをしていたアンタが悪い」とは絶対に言いませんね。
どうにもならない過去のことより未来をどうするかのほうが大切だと思うので。
そういえば、うちの子が「ごめんなさい」と言うのを一度もきいたことがないような気がします。


題名: 非を認めること
投稿日時: 2007-10-26 21:28:26
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 56
みなさん、こんばんは。

うちの息子も そう簡単には自分の非を認めません。

物を落として壊しても、飲み物をひっくり返しても、それを眺めながら
・そこにあるのが悪い
・自分は悪くない
・怒られたくない

と思っているようで
「ごめんなさい」よりも「ぼくは悪くない。怒らないで」という言葉が出ます。
わざとじゃなくても失敗したら謝らなくてはならないことを
何度言っても なかなか素直に謝らないですね。


息子はまた、「失敗を恐れるあまり、最初からやらない」
「負けることを恐れて勝負をしない」ことが多いのですが
そういうことに通じる気がします。
人一倍傷つきたくない、否定されたくないのだろうな・・・。

いちいち確認を取ってOKがもらえれば、否定されずに済みますもんね。


題名: なべ
投稿日時: 2007-10-27 09:28:55
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登録日時:2013-10-18 04:45:31
投稿記事数: 145
うまく対処できないと思ったときに、そのことと自分の関係は無いかのようにふるまうことで自分を守るという行動パターンをとりがちですね

誰がどう見ても関係ある場合に、固まってしまったりする以外の行動を取れるようにするにはどうすればいいのかと考えてみたいと思います
理解のある人なら、困ってしまったのだろう、大丈夫だから一緒に片付けよう、ということになるかもしれませんが、どこでもそんなふうに自分に対する優しさを期待するわけには行かないでしょう

散乱したおなべの前に一人立っていれば、その結果を導き出した原因は自分の行為だとはっきりわかっているはずです
おなべは私のお気に入りで、買ってきて喜んでいたり、日ごろ使いながら「いいおなべでしょう?」などと言うのも聞いていたのですから、それが壊れたとき私ががっかりするということもわかっているでしょうし、そのような悲惨な状況を誰かが片付けなくてはならないということも理解しているはずです
それをわかっていながら(わかっているからよけいに?)、ただ固まっているとすると、高校生としてはちょっと未熟だろうと思います

遺伝的なアミグダーラの反応で、体がすくんでしまいがちであるのだとしたら、思考、判断などの大脳皮質(?)の働きを鍛えて、それをカバー出来るようになってもらいたいです

優等生的な行動を取ってもらいたいわけではないのですが、自分の行動を人にゆだねることは無意識に取ってしまう行動で、必ずしも本人はそれが一番いいと思っているわけではないと思います
本人にとって納得できる行動が自由に取れるようになることが一番望ましいと思いますので

やっぱりここは、責任ということでおなべ代お小遣いから出してもらおうかな~


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