このトピックの、ずーっとまえのほうで書いていた、ガクッときてた事について書いてみます
幼稚園のときは、先生の対応がとても良く、「~しなければならない」のないところだったので、比較的よかったと思っていました
おそらく、場面緘黙を、知らなかった割には、良かった・・と思います
子どもは、描いた絵や作ったオブジェを、先生にとても大事に飾っていただいていました
今思えば子どもが表現することが好きなのは、こうした先生たちのお陰だとも思えます
参観に行くと先生が一人ひとりのお母さんのそばに来て、子どもの作品や生活を丁寧に解説してくれました
そこでわかったのは、先生が子どもの作品をとても愛して下さっていることです
一番素敵に見えるように、飾ってくださっていることがよくわかりました
参観時間に、音楽に合わせて動物のまねをする遊びのときには、先生はピアノを弾きながらみんなに聞こえる大きな声で「あら、○○ちゃん(うちの子)の蛇さんは、一番すごいです!!みんなも頑張ってくださいよ~!」と言ってくださるなどして、いつでも子どもを勇気付けて下さっていましたし、ちょっとでも頑張っていることを、決して見逃さなかった
そう感じられたので、私としてはすっかり安心して行かせていました
ところがつい最近聞いた話で、年長ぐらいになると、いつもお友達が「アって言ってごらん」とばかり言うことは嫌だった
また、年中のときの先生が、仲良しにさせようとして何人かの子と自分を一緒に遊ぶようにさせたけれど、自分はその子たちがあまり好きではなかったので、それは嫌だった
のだとわかりました
それから、信頼していた小学校低学年のときの先生の、子どもに対する言葉がけで、
言葉でなく首ふりで答える子どもを「こっくりさん」と呼んだこと
お姉ちゃんがとても活躍して目立つタイプだったので「お姉ちゃんに元気を吸い取られちゃったのかしらね」とよく言われたこと
まあ、そう言いたくなるのもわかりますが、教育のプロとしては適切な発言とは言えない
子どもを勇気付ける発言と比べれば、勇気がしぼむ発言ですよね
しかも、目に見えやすい活躍に気をとられ、大人しく見える子どもの良さをちゃんと見通す能力が無い、そうでなければ、そんなことは言えないでしょう
子どもが生き生きしたときの先生は、常に、「○○ちゃんは大丈夫ですよ!お母さん とても素晴らしいですよ!」と言ってくださっていました
それから、仲良くしていた友人が、毎日、「どうして二人になるとよく話すのに、みんなといると話さないのか?話さないと、みんなに迷惑だ」と言っていたこと
ただそれは、たまたまそう言っているとき私が遊んでいた部屋に来て、それを聞き、「だんだんと話せるようになるけど、それは今すぐではないから待ってね」と言ってから、言われなくなったのだとか・・・そんなこと言ったのなんて忘れていました なかなかいい伝え方出来てましたね・・我ながら

先生に発表のとき「声を大きく 」と言われること
はっきり答えたり出来ないときに、しっかりしていない、とか、甘えている、というように判断する先生が嫌だった
高学年だから、このぐらいのレベル・・それが出来ない子は、甘えている・・そんな単純な図式で言ってくる先生って、そりゃむかつきますよね 子どもなりの小さな努力、表立っていない素晴らしい素質、あるいは気にかかっていることなどを、見通す能力が自分に無いことはさっぱりわかっていないのに、あるいはわかっていないからこそ、自分の図式にみんなを当てはめて、ダメなやつと判断する、そんな教師がいるとしたら、というか、けっこういると思います 「もしかして・・君こそがダメな教師なのでは?」そんなことを言う勇気はありませんが

とにかく、自分の無能さに気づかず、それを補うために振り回しているありきたりな常識を疑わない人こそ、とんだはた迷惑ですよね 教師として存在していていいのか、自分を疑ってもらいたいですが、そもそもこういう人はそれができない
まあ、それでもたいていの場合、そこまで変な人は別として、先生やお友達が、うちの子が不快に思うようなことを言ってしまうのも、場面緘黙だとは知らないし、見守ってみることも出来ないせいで、いったいどうしてそうなっているのか?と、非常に疑問に思うからだと思います
わからない・・って、何かやっぱりしっくり来なくて、その不思議さを、ただ単純に本人にぶつけるわけですね
あるいは、普通に話せるようになるといいのにという気持ちから、言ってくれた場合もあるでしょうね
でも本人は最初からそうだったので、わけわからない
でもそういうときのうちの子の反応は、意外に自己肯定的・・というか、逆に、そういうことを言ってくる人に対してかなり優しかった、キャパシティの大きな娘・・ほんとに賢いです
たいていは許してあげたけど、しつこいと怒ってました
自分がダメなやつだ、とはならなかったのが、やっぱり天才なわけです
子どもがそういう根本的な自己肯定感を持てているかどうか、というのは結構重要なことかもしれませんね
また、優れた先生は、わかっていなくても、今資料にあるような対応をちゃんとしてくれていた、その人の人間としての資質の高さによってそれが出来ていた
そういう方々には、本当に感謝しています
娘の場合、本人の根本的肯定感を育ててくださる、言葉以外の表現を大切に育ててくださる、そういう方との出会いに偶然恵まれたので、だんだん良くなることが出来た、本当にありがたいことです
そして、娘が、今治ってしまってから、偉そうに言うのには、「黙っているのも良かったよ」どうしてかというと、「話さないでいると、静かに考えられるから」なのだそうです
そうか、それじゃもしかして、そのときは静かに考える能力を育てていたのか??そうとも言えるかもしれませんね
そういえば、君は今、理解力や思考力に優れているね

ねえねえ、何年生ぐらいでどのぐらい話せていたの?何人ぐらいと?などと私が、ねほりはほり聞こうとしたら娘は「もう!いいじゃない!」とうるさそうに言い、今と比べて、黙っていたのだっていい点があった、と言う・・
そういわれてしまうと、なんだか、自分が人間として小さい、娘のほうがでかい・・そう感じてしまいます
あることが、いいことか悪いことか、正常か病気か、それを決めるのは誰なのか?人と自分の常識が違っているときに、ついつい自分がいけないと思ってしまう人もいれば、人に自分の常識を押し付けて平気な人もいます
しかし、考えてみれば、話すか話さないか、その視点だけで人を見ようとすること自体、貧しい考えとは言えないでしょうか?
娘が私の質問をうざく思うのは、そういう言葉にならない彼女の意識を表しているのかもしれない、と思うと、自分が恥ずかしくなります
娘は常にそういう見方の被害にあってきたけれど、常にそれを黙殺して自分の世界を強めていったことは、恐ろしいぐらいの心の強さなわけです
だから今、自分の世界を見事に展開し、素晴らしく表現することが出来る
自分の世界が強固に確立されたとわかったとき、初めて自信を持って話し始めた
それまでは、簡単にその世界を人に向かって開いたりしなかった
みんな違ってみんないい・・なんて言っても、権限のある人の常識や、大多数の人の常識が、力を持っているのが現実です
この子達がひどくなってしまうのは、そういう力が大きくて、この子達なりなゆっくりした成長力が押しつぶされてしまう、あるいはみんなと違う自分はダメなのだと思って萎縮してしまう、そういう面があるように思います
思いっきり長く書いてしまいました
読んでくださった方、どうもありがとう
